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続・神の栄光はヘヴィー

旧約で頻出する「栄光」は"kabod"。その原義は「重さ」。だから祭司たちは臨在の雲が満ちるとその栄光のため立って務めができなくなった(1Ki 8:11)。私はかつていわゆる「倒れる現象」はいかがわしいと判断し、何の意味もないとみなしていた*1。が、12月の自身の経験以降、栄光を自分のボディで体験的に味わった。神に仁王立ちされて臨まれるとまったく身動きできなくされる。聖霊によって屠られるのだ。今回、その栄光を新約においても見出した。ここは何気に見過ごしてきたが、パウロはこう証している:

なぜならば、私たちの一時的な軽い艱難は*2、卓越した仕方で、私たちに永遠の重み〔に満ちた〕栄光*3を造り出してくれるからである。その際、私たちは、見ることのできるものにではなく、むしろ見ることのできないものに目を注ぐ。見ることのできるものはしばらくの間のものであり、他方見ることのできないものは永遠に〔あるの〕だからである。-2Cor 4:17-18(岩波訳)

今、両手を軽く挙げるだけで、神に直接触れられ、この重みが臨むようになった。やばい・・・。

■追記:21:21-22:05まで風呂に入っていると、再度、あの現象が起きた。時間は15分くらいか?何も見えず、聞こえなかったが、体にtangibleに現れた。

*1:今、この点、全否定していたわけではないことに気がついた。自分で2002年英国でのキャンプの経験をこう書いていた

注:1回目は1982年5月、二度目は2002年8月イギリスでのキャンプの際、コリン・アーカートとひとつ霊のうちに歩むことを願う世界のパスターたち30名ほどで手を組み祈っていたとき、ノルウエーのエネヴァルド・フラーテンによって額にタッチを受けました。その時は何の変化もなかったのですが、席に戻ってから足腰が立たなくなり、ふらふらしてキャラバンに戻り、2時間ほど立てなかったのです。帰ってきて私のミニストリーの質は明らかに変わりました。

*2:注として、「艱難の一時的な軽さ」。
*3:注として、「栄光の永遠の重さ」。なお、重みという言葉は、ヘブライ語では「栄光」の意で用いられる。

Comment

ヒロ

めでたい・・・あ、いや、
クリスチャンらしく、

主に栄光。

  • 2015/01/17 11:25
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Luke

極私的にはまだ整理の最中でして。もしかしていよいよ幻覚が始まったかもと・・・(^_^;)

  • 2015/01/17 15:44
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