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罪のゆるしと病の癒し

Dr.Lukeは最近、しるしや不思議や癒しに傾ていると感じる向きもあると思う。私自身がこれまで軽く扱ってきた領域であるが、実は私自身に信仰がなかったためなのだ。だから語れなかったし、信仰の欠如を感じていた故に、あえてそれらを蚊帳の外に置きたかったのであろう。

マルコ2章において、中風の男に向かって主が言われる、「あなたの罪はゆるされる」(Mark 2:5)。これに律法学者たちが神を冒涜していると考えると、イエスは霊によってそれを見抜き、「なぜそんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、。『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(Mark 2:8-11)。

現代の私たちにとって、どちらが易しいであろうか、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと。正直に告白すると、私には後者は言えなかった。なぜ?前者は自分にとってリスクがない。後者は大恥をかくリスクがある。しかし、実は前者を語ることの方が神のみ前に大きなリスクがあるのだ!極私的には罪の赦しを病の癒しより低い価値のものとしていたのだ。しかし、イエスにとっては罪の赦しの権威を持っているゆえに、病の癒しは容易なものであったのだ。

ここでの論点の本質はこうだ。いわゆるしるしや不思議や病の癒しを軽んじ、それよりも"高尚な"聖化されることや、高い道徳や霊性の追及に明け暮れる人々がいる。しかしそのような人々に向かってイエスは言われる:天の国に入るためにはあなたがたの義は律法学者やパリサイ人に勝る必要がある、と(Matt 5:20)。もっと言えば、人の獲得するあるいは達成する義ではなく、神のレベルの義であり、神が聖であるように聖となる必要があるのだ!(Lev 11:44)。我々にあなたにできるでしょうか?もちろん、ノー。言いたいことはこうだ。しるしや不思議や病の癒しを軽んじたり、認めない人たちは、実はそれらよりももっと奇跡的(=不可能)なことを自分の力で達成しようとしていることに気がつくべきだということ。逆に言えば、それらを達成できたら、しるしや不思議や病の癒しは当たり前に起きるということだ!Are you with me?

要するに救われること、霊が生かされること、キリストが聖霊によって内住されること、魂が造り替えられること、いずれ体が贖われること。これら自体がすでにしるしであり、不思議であり、奇跡なのだ!そもそも人にはできないこと。が、神にはできる。異言はない、しるし・不思議もない、癒しもない、預言すらない・・・・。嗚呼、こういう人々はとんでもない勘違いをしている。いや、私自身がそうだった。スーパー・コンピューターが自然にできたと信じる人はいまい。が、進化論者はそれを作った人間は自然にできたと信じている。これと同じレベルの勘違いなのだ。

改めて神から問われていることは―

あなたは何を求めているのか?

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