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信仰と論理

主は生まれつき盲目の男の目を開くとき、つばきと土を混ぜて泥を作り、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。「はぁ?主よ、彼は目が見えないのですよ、シロアムの池は階段で降りるのです。目を開いてあげてから洗えと言うべきでしょう?」

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私たちの生まれつきの魂の一機能である思い(mind)は必ず理屈に従ってジャッジする。それは不合理だ、論理的でない、おかしい、馬鹿らしい・・・と。逆に言えば、生まれつきの魂の人は自分の理性を誇り、論理に従うことを人間性の最高の指針とし、自身のプライドの根拠とする。だから、彼らは霊のことは理解できないし、彼らにとっては愚かなことなのだ(1Cor 2:10)。つばきで泥を作って、目に塗るって!?

論理は「p→q」がunitだ。「pならばq」と読む。英語では"p implies q"だ。pとqを満たす要素の集合(真理集合)をそれぞれP、Qとすると、このunitが真であるときは、「x∈Pならばx∈Q」のこと、i.e.P⊆Qのことだ。言い換えると、「x∈Pであるのにx∉Qであることはない」ということ、すなわち「¬(p∧¬Q)」のこと。この真理表は次のとおりになる。

pq¬qp∧¬q¬(p∧¬Q)
××
××
×××
×××

このような操作を形式論理というが、私たちの通常用いている思考法則(シーケンス)を定義したものだ*1。私たちはこのような法則、まあ、地上の知的法則に従うことを良しとする。が、イエスはあえてこのような法則を逸脱するのだ。そもそも「神は父・子・聖霊の三パースン(位格)にいまして、唯一である」といういわゆる三位一体の定式もこの論理から逸脱している。これをパースンにおいては区別されるが、本質においては同質(ホモウシオス)とか解釈を加えて一応納得するわけ。が、自然における光ですらも波であり、粒子でもあるわけだから・・・。

・・・とお遊びは置いておいて、イエスはあえて私たちのオツムを弾けさせる。唖の男を癒すときには、両耳に指を入れ、つばきをつけて彼の舌に触った(Mark 7:33)。はあ?何の意味が?知恵の木の実を摂った人類に対する神の挑発とも言えるかも知れない。神の知恵と人間の知性と、どちらが偉大なのか?神の知恵は人間にとっては愚かなのだ。それが十字架だった(1Cor 1:18)。神の国を地上に顕す鍵は従順。それはすなわちリスクを取ること。人の目にとっては愚かな道を歩くこと。ラザロを蘇らせる時も、イエスはあえて愚かにも4日も待った。会堂司の少女を蘇らせるときは、「寝ているだけだ」と言って、人々から馬鹿にされた(Mark 5:39-40)。イエスは自分の身内からも「狂っている」と見られている(Mark 3:21)。パウロもしかり(Acts 26:24)。

かくして信仰は希求するものの実体、見えないものの証明なのだ(Heb 11:1)。それは論理を超越している。目の前の事象を論理の網でシーケンシャルにとらえたがるのが人類の性。が、イエスは違う。すべてを信仰の目で見ている。それは見えないものが見えるものを構成することを知っておられるから(Heb 11:3)。彼は霊によりたちまちのうちに見えない実体を把握し、それを語り出すのだ。すると目の前の事態は一瞬にして変えられる。これが神のキングダムにおける生き方なのだ。キングダム・シンキング(マインド)キングダム・アッタランス。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

*1:ちなみにこの真理表によれば、「-1=1→(-1)2=1」も、「2=1→22=1」も正しいのだ!え、なぜ?と質問が。要するに、仮定法、反実仮想の世界。

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