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神の国と教会(エクレシア)

神の国と教会(エクレシア)は必ずしも同義ではない。地上におけるイエスの行動を見ると、神の国の到来を告げつつ、彼のところに来た人々をすべて癒された(Luke 6:20)。彼らは必ずしもクリスチャンであったわけではない。神の国の到来は地上において神ご自身の権威とパワーを証しする。イエスはいわゆる礼拝堂においてのみその御業をされたわけではない。弟子たちと旅をしながらいつでもどこでも人々の必要に応じられたのだ。その中から召された者たちが得られた。エクレシアの素材として。

こうして十字架を経て、復活の週の最初の日の夜に弟子たちに「聖霊を受けよ」と息を吹きかけ、目に見えないエクレシアが誕生し(John 20:21)、40日間彼らを訓練した後昇天され(Acts 1:3)、ペンテコステの日に炎のように聖霊の傾注がなされ、エクレシアが目に見える形で顕現した(Acts 2:1-2)。彼らには天で御心がなるとおり、地にもなることが委託され、神の国の証しを任されている。エクレシアは本質的にはキリストの体であり、キリストの花嫁であり、経綸的には神の国の地上における派出所のような権威と機能を与えられている。

つまりイエスのなされた業は、いわゆる礼拝やセレブレーションの場面のみでなく、地上においていつでもどこでもなされるべきなのだ。イエスがなされたように。これは御言葉の宣べ伝えとシンクロしている。事実、弟子たちはこう祈っている:

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるし不思議なわざを行なわせてください。-Acts 4:29-30

そしてなによりもイエスご自身がこう言われる:

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。-John 14:12

最近とみに、これが終わりの時代の私たちのあり方なのだと感じている。何度も恐縮だが、要するに聖書は私たちの生来のマインドからすると、ぶっ飛んでいるのだ。マインドがまずトランスフォーム(メタモルフォーシス)されること、これが神の国を現出させる第一の鍵なのだ。それは神の国の地上への進攻だ。

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