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日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます(詩篇27:8)。

 「朝、太陽が照っていたら、私はします」。
 「ドアが開かれるならば、それをなすのが私であると分かるのですが」。
 「世界宣教のクラスに合格するならば、私は宣教師になります。そうでなければ、一地域の牧師でいいです」。
 私たちは自分がこのような姿勢よりはましと思っていますが、いざとなると頭に浮かぶことがこれと同じ状況であることに驚くのです。このような前提主義は、主の前に「毛皮を置き、しるしを求める」ことです。
 毛皮はギデオンの物語に由来します。士師期6章において、ギデオンはイスラエルをミデアン人から解放するために神に召されます。ギデオンは神がイスラエルと共にあることを疑い(13節)、自分自身の能力を疑い(15節)ました。そこで彼は神にしるしを求めたのです(17節)。神は彼にひとつのしるしを与え、バアルの祭壇を打ち壊すように語りました。彼は昼間は恐れていたので、夜、出かけました。
 そして、さらに彼は神がイスラエルを解放することに疑問を持ちました。この時は、小羊の毛皮を地面に置きました。もし神がイスラエルを解放するならば、朝、毛皮を湿らせ、地面は乾いたままにすることを求めました。よく朝、そのとおりになりました。これで彼は納得したでしょうか?違いました!さらに確証を求めて、また神が怒らないことを願いつつ、ギデオンは神に再度、逆の結果となることを求めました(すなわち、毛皮を乾かし、地面を湿らせる)。英雄としては相応しくないでしょうが。しかし、神はギデオンの求めに応えられ、ギデオンの軍隊を300人に減少しました!
 ここの物語の要点は、神ご自身が、人ではなく、解放者であることです。神は必死で確証を求める人物を選ばれ、その軍隊を縮小し、勝利はご自分のものであることを示されたのです。毛皮は信仰のデモンストレーションの手段ではありませんでした。それはむしろ逆です。またそれによって神の御心を動かしたのでもありません。神はすでにギデオンになすべきことを告げておられました。ギデオンは神の完全さに疑問を呈しました。ちょうど私たちも神の御旨が明らかなのに、毛皮を求めると同様です。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12:39)。神の民として、私たちは神のみ顔を求めしょう。

 主よ、時に私たちはみ顔を求めるのでなく、しるしを求めることを赦してください。私は今日、あなたの御言葉に啓示された信仰の内を歩むことができますように。

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