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ロゴスからリアリティを見る能力

プールでたっぷり泳ぎ、ジャクジーを堪能してきた。冷たい風に吹きさらされてジャグジーに浸かる瞬間が実にシアワセ。

さて、Bill Johnsonの本に実に名言と思われる言葉があった。"God is the Father, the Son and the Holy Bible"ではないと!使徒時代、もちろんいわゆる現在の66巻からなる聖書などはなかった。また写本もまとめられていたわけではなく、使徒たちみなが旧約聖書をすべて知っていたとは思えない。パウロはこの点、ガマリエルの下で薫陶を受けた結果、新約の啓示を旧約と照らしてまとめる務めができたのだ。つまり使徒たちは父と子と聖ではなく、聖霊に従ったのだ。

実は私自身も聖霊の働きに関しては、どちらかと言えば無頓着だった。正確に言えば、聖霊をキリストの御霊として理解し、特に人間生活を経た霊として関係を保ってきた*1。もう少し言えば、内なる御霊は経験し(inの面)、味わってきたが、外なる御霊(uponの面)、つまり聖霊の働きあるいは現象についてはそれほど重きを置いていなかったのだ(→御霊と人の関わりについて―油注ぎ(on)と油塗り(in)―)。この点、Bill Johnsonが面白いことを言っている、内なる満たしは自分のため、外なる満たしは他人に仕えるためだと。なるほど、私の言う、いのちとしての本質的満たしと働きのための機能的満たしのことだ。しかも、聖霊は神ご自身なのだ!

Bill Johnsonが受けている批判に、聖書を無視しているというものがある。しかし、これは批判者が霊的に開かれていないためだ。聖書自体は白黒の文字。文字は人を殺すが、霊は人を生かすのだ(2Cor 3:6)。つまり聖書をいのちとして、神がリアルに語ることば、すなわちレーマとしてくださるのは聖霊だ。聖霊はあらゆる真理に導いてくださる霊(John 16:13)。先のマクスウェルの方程式(これ自体はロゴス)から次の電磁波のイメージを見ることが出来る人が物理学者なのだ。このためにはある種の能力が必要となる。

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聖書の言葉も同じ。それ自体はロゴス。しかし聖霊がそこに働くとき、聖書が立体的に見えるようになる。聖書を読むのではなく、神の語りかけを聞く感覚なのだ。御言葉の霊的な解釈とか解き明かしとかではなく、神が直接に語りかけて下さっている。それを聞くこと自体に喜びを覚えるのだ。イエスの言動も3D映画となる。また彼が個々の場面で語った言葉の意味というよりは、動機と心が理解できるようになる。さらにはイエスの息遣いも感じられる。この能力をくださるのが聖霊だ。聖霊に頼らず、聖書と六法全書的に向き合ったらなんとも味気ない。神の言葉の記録というよりは、録音と感じられ、神の言葉に耳を傾けるのだ。Dr.Kさんが指摘されたとおり、従順とは傾聴なのだ。

聖霊に関する意識、これを改めて刺激されている次第。

*1:アンドリュー・マーレー:『キリストの御霊』を参照。

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  • 2015/02/15 18:06
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Luke

なるほど、そのとおりですね。中国などでは聖書がなくても立派に信仰が生きてるわけですからね。

  • 2015/02/15 19:14
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