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どなたと同一視するか

十字架は全宇宙の歴史の転換点だ*1。旧創造を負われたイエスはそこで旧創造の不条理をすべて引き受け、苦しみの中で死なれた。その苦しみはわれわれが知る由もない。神の独り子だけが与り得る苦しみである。しかし、イエスは聖霊により復活した。このとき私たちも復活した。この復活の領域は新創造の領域であり、あらゆる旧創造の不条理から解かれている領域である。イエスが地上におられたとき、あの地において限定的に現された神の国が全地球において現出する。神の国は私たちのうちに聖霊によって生きている。

そこで病の癒しについても言えるが、自分をどなたと同一視するのかがポイント。自分の葛藤や苦しみや病や罪からの解放を求めて、苦しんでいる十字架の主と同一視するのか(=アダムとの同一視)、勝利にあって復活され、天に座しているお方と同一視するのか(=第二の人との同一視)。私たちはすでにその方と共に天に座しているのだ。

よく言われるキリスト教のセリフに「十字架に戻れ」とある。これがけっこう曲者なのだ。しばしば、そこで苦しまれているキリスト、すなわちアダムと同一視してしまう。実際は十字架は旧創造がすでに終わったことの保証であり、その後に復活があることを思いこさせる場なのだ。私たちは自我に死のうとする必要はない。すでに死んでいる!ポイントは復活したキリスト、その方と同一視するとき、まことに神の国のいのちと力を味わうことができるのだ。サタンも手の出せない領域。罪の赦し、病の癒し、貧困からの解放、豊かな人生を堪能できる。

愛する者よ。あなたが、たましいが繁栄しているようにすべての点でも繁栄し、また健康であるように祈ります。-3John 1:2

*1:もっと言えば、切断面と言える。

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