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素朴な疑問

現代においては、いわゆるしるし・不思議・癒し・異言・預言・使徒もない、とのたまう方々は、次の御言葉はどのように理解しているのかしらん?

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。
信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」
主イエスは、彼らにこう話されて後、天に上げられて神の右の座に着かれた。-Mark 16:15-19

イエスはすでに天に挙げられたゆえに次の御言葉は成就するはずだ。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしを信じる者は、わたしの行なうわざを行ない、またそれよりもさらに大きなわざを行ないます。わたしが父のもとに行くからです。またわたしは、あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう。父が子によって栄光をお受けになるためです。-John 14:12-13

ちなみに「使徒」とは「遣わされる者」の意味に過ぎないのだが。確かにオリジナルなイエスが選んだ12使徒は特別であるとは思う。

追記:最近、しみじみ感じるのは、同じ聖書を読みながら、なにゆえにこれほどに理解が食い違うのかという点。たとえば、再建主義の富井氏に言わせれば、ディスペンセイションを教える者は永遠の滅びに落ちる。私は確実にアウトだ。鍵は霊のことは霊によって知る他ないということ(1Cor 2:14)。オツムで解釈するとあえて混乱するように神は配剤されているのかしらんとも思える。これも善悪を知る知識の木の実を食べ、魂、特に思いを肥大化させた人類に対する警鐘なのかなと思える昨今ではある。人間の思い(マインド)のパワーは思いの外、大きいものがあるのだ。ゆえにマインドがキリストのマインドと一致すること、これこそが信仰をまっとうするための大きな鍵となる。

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