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霊と魂の相克

ベニー・ヒンについての最近の発言を紹介しているが、やはり過敏な反応が出るようだ。最近注目しているビル・ジョンソンについても、アメリカでは偽預言者・異端・カルト・ニューエイジとかなり批難がある。さらには、ニール・アンダーソンについてすら、同様の批判が行われている。もっと言えば、英国のコリン・アーカートについてもだ。ここまでくると極私的には批判している側の資質を検討する必要があると思うのだ。ご存知のように私についても一部のニッポンキリスト教徒からカルトだ、異端だとされているわけで。

そしてこれはイエス自身が遭遇した事態なのだ。つまり、この地上に神が人となって現出され、水の上を歩いたり、パンを増やしたり、病人をことごとく癒し、死者を生き返らせたり、自分の肉を食べ、血を飲めと言ってみたり・・・、こういった事態がそのものが人の常識やパラダイムを揺すぶるのだ。人は自分の世界観やパラダイムに脅威を覚える場合、批判や攻撃性を見せる。メッセでも語ったが、聖書なる書物自体が元々ヤバイことを証している。キリスト教はその中の自分が受け入れることができる要素だけをつまみ食いして、いわゆる神学や文化や伝統を構築してきた。それはトランスフォームされていないマインドでも受け入れられる要素だけに基づいている。

たとえば、その体系の中では五つのパンで五千人を養うことは、神であるイエスにはできても、人間である自分たちには不可能とするのだ。ところがビル・ジョンソンなどは、いや、イエスはあくまでも人として業を行った。だから私たちもそれと同じ業、さらにはもっと大いなる業がなし得るとチャレンジする(John 14:12)。ここで人は自分のパラダイムにチャレンジを受けて、不安を覚えるのだ。そこでいろいろと議論を始め、さらには攻撃すら行う。これがトランスフォームされていない私たちのマインドの性向であり、パイサイ人や律法学者がしばしば行ったことだ。かくしてイエスは悪霊に憑かれているとか、果ては狂っているとまで非難されている。神のものはかくのごとく生まれながらの人間の魂にとっては決して受け入れらない。それは彼らにとっては愚かなもの、狂っているものだから。彼らの攻撃性の強さと彼らの内的不安とは正比例する*1

生まれながら(Gk.魂的)の人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、霊のことは霊によってわきまえるものだからです。-1Cor 2:14

かくして私たちのマインドは神に敵対するか(=肉におかれた思い)、神に服するかのどちらかに置かれる(=霊におかれた思い)。もし自分の魂のマインドを変えることを拒むのであれば、それはすなわち十字架を拒絶することであるが、それ以上の霊的進歩は止まる*2。もし十字架により自分の魂を否み、マインドのトランスフォーメーションを受けるのであれば、信仰は拡大され、さらに豊かな霊的領域に入りゆくことができる。十字架は自我を砕くとか叫ぶ場ではない。御言葉の真理と自分のマインドのどちらを選択するかを問われる場なのだ。絶えざるトランスフォーメーションによってのみ、神の深みへと入り込むことができる。神の深み!それは奥義また神秘である。

まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:9-10

*1:内的に安息している人は性急な結論は出さないものだ(1Cor 4:5)。
*2:この場合、延々と他者を批判また攻撃する、否、しないと自分を保てなくなる。

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