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サブスタンスと物理的時空間の狭間で

下で紹介したビデオで霊的領域(spiritual realm)を見た時、サブスタンスに満ちていたと語っている。まことにこのサブスタンスが物理的時空間に現出する作用が信仰(一応通常の言い方で)だ。よってヘブル11:1(Heb 11:1)をある英訳では"substantiation(実体化)"と訳している。

私も12月に見た世界でいくつかのサブスタンスを見た。そして声を聴いた。その中のひとつが「癒された」だ。「えっ、何が?自分は別に病気はないけど・・・」と感じたのだが、その後右耳の難聴が癒され、腰の神経障害による右足の麻痺が癒され、今回、30年来の花粉症が癒された。特にこの花粉症は自分でもすでに自分のアイデンティティーの一部にしていた程なので、まさか・・・、と今だに半信半疑なのだ。どこか他人事のように、うれしいとも感じられず、実感が湧かず、ただ花粉症が出ない事実だけを確認している。あの「癒された」はどうも包括的な癒しであるようだ。しかし、何か騙されているようなふわふわした感覚が伴うのだ。

何をしたかというと、「イエスの名によって、IgE抗体よ、花粉に反応するな。ヒスタミンよ、分泌されるな。免疫系よ、過敏に反応するな」と命じたのだ。以前の私であれば、「馬鹿らしい」と・・・。このように信仰によって語り出す言葉にパワーがあるとする立場をWord of Faith Movementと呼ぶ。そしていわゆるリベラルや福音派系の人々からは異端だとか、カルトだとか、ニューエイジだとか断罪されている。始祖はケネス・ヘーゲンとされる。

根拠は、要するにイエスは言葉を語り出すことによりすべての病気を癒し、悪霊を追い出し、死者を蘇らせた。イエスは、「わたしの言葉(レーマ)はいのちであり、また霊である」と言われた(John 6:63)。そして「信じる者もイエスと同じ業、さらに大いなる業をなす」と言われた(John 14:12)。ゆえに私たちも言葉を語り出すことによりイエスと同じ業をなし得るわけだ(2Cor 4:13)。

ここで批判者たちは、それではクリスチャンが「小さな神」になるではないかと指弾するのだ。イエスは神だからこそ、あのような業がなし得たとしているからだ。ところが御言葉にはこうあるのだ:

それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。-Acts 10:38

ここでは明らかにイエスは人として業を行ったと読める。すると私たちも聖霊と力を注がれ、神が共におられるならば、同じことができることになる。まして、イエスはご自分が父のもとに行くゆえに、同じ業、さらに大いなる業をなし得ると約束されている(John 14:12)。

かくして、私たちの言葉がイエスの言葉と同様に働くためには、信仰は希求する事柄のサブスタンスであるとあるとおり、そのサブスタンスを語り出す必要があるのだ(2Cor 4:13)。そのとき、見えないそれがあばかれる(prove)、つまり時空間に現出する(Heb 11:1)。これがヘブル書の解くところだ(Heb 11:3)。

私はこうして自分の経験を御言葉で根拠づけているわけ。そうしないと、事実が先行しているために、どうにもふわふわと落ち着かないのだ。現実として確かに癒されているが、自分に何が起きているのだ???これも何かの欺き、フェイク、トリック???その他にも見えたサブスタンスがいくつかあるが、まだその意味もよく分からず、実現していないものがある。Bill Johnsonの本にこうあったのだが、少なからず安心感を得ているところだ。

The walk of faith is to live according to the revelation we have received, in the midst of mysteries we cannot explain.

信仰の歩みは、私たちが説明できない神秘の真っ只中で、受けた啓示に従って生きることだ、と。これは目に見えるところによらず歩むことで(2Cor 4:18)、ある種の緊張感と困惑感を伴うのだ*1

*1:自分のマインドのに適合しない現象には基本的に拒否感や緊張感を覚えるのが人だから。Bill Johnsonらは腕の中の骨をつなぐ金属が骨に変化する現象を当たり前と感じているのだ。数百例も経験しているとのことだ・・・。うーむ

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