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サブスタンスをつかむ

よく自分の信仰を云々する向きがある。自分には信仰があるとかないとか。あるいは自分が信仰によって何かを頂ける人間ではないとか、小さなものに過ぎないとか。あの人の信仰は偉大とか、純粋とか・・・。メッセも語ったがみな自意識過剰だ。

実は信仰はそのようなこととは一切関係がない*1。信仰、もっと正確には信(pistis)とは実体(hupostasis)、サブスタンスだからだ。それは私とは関係なく存在する。そのサブスタンスそのものが信なのだ(Heb 11:1)。世界はそのサブスタンスがframe化されたもの(Heb 11:3)。肉の目には目の前の事実がサブスタンスよりも現実感を伴う。それがリアリティだと思っている。しかし主の目にはサブスタンスの方が現実よりもリアルだったのだ。だから五つのパンで五千人を養うこともいとも容易いことだった。私たちも霊の目が開けると目の前の事象よりもサブスタンスの方がよりリアルになる。天のポータルとして霊的領域のサブスタンスにアクセスし得る能力を得ている。キャッシュ・ディスペンサーのように、そこからいくらでも天の富を引き出せるのだ。

サブスタンスに触れたとき、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前にはまだ存在していなくても。くどくど長たらしく祈る必要もない。ふっと霊を開けば良いのだ。神の国は、今、ここに、あるのだから。キリスト教のあれこれのややこしい教えの体系を捨て去れば、見える。私たちは内側に神の国を得ている新創造だ。天の父はわたしの持っているものはすべてあなたのものだと言われる。御子イエスは私たちが彼とおなじ業、さらにもっと大いなる業をなすと約束された。聖霊はそのことを地上に現出させ、実際に行われる。Pete Cabreraはこの内なる存在はhuge、humongousだと言っている。

まことに私たちは神の国のパワーポイントなのだ!

*1:よく自分の"信仰"に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の"信仰"を見ていると罠に落ちるのだ。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5。

Comment

電気屋

「自分の"信仰"に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の"信仰"を見ていると罠に落ちる」

アーメン クリスチャンあるあるですね(←自分)

自分の信じる力に力や意味はなく
誠の”信”は神のものでイエスの信のより
この地上で意味を持ち神の力の顕われとなる。

ちょっと似た事に、自分の信じている事を聖書のことばを使って正当化する傾向=すでに罠に落ちている様なもので
そもそも自分の理解や自分の義(正当性)などは主の啓示の前に何の意味も力も無いと言っても言い過ぎでもないと思わされています。

  • 2015/03/17 17:19
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Luke

しばしば、自分の信仰というよりは、信心で自分を支えようとするのですね。信仰という単語はやっぱりあまりよろしくないですね。ただ信です。それはサブスタンス。

御言葉もあまりあれこれ弄るのは最近はちょっとです。読んで解き明かすとか、解釈するとかではなく、聞きたいですね。

  • 2015/03/17 18:37
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電気屋

「読んで解き明かすとか、解釈するとかではなく、聞きたいですね。」

素晴らしいです!

  • 2015/03/17 22:16
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