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ヨハネ14章12節など・・・

ここでも何度も引用しているこのイエスの言葉。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。-John 14:11-14

これについては例えば、こちらを見て欲しい。いわゆる聖書の解き明かしをくどくどしているが、果たしてイエスご自身はこのようなことを意図されていたのだろうか?単純に受け取れば、イエスがしていたわざ、つまり悪霊を追い出し、病人をすべて癒し、死者を生かし、ライ病を清めたのだ。

そしてBill Johnsonを批判する人々が指摘する、イエスはあくまでも人としてわざを行ったという点については、悪魔の試みに会ったときも、「もしあなたが神の子なら・・・」と問いかけても、「人はパンだけで・・・」、「ただ神をのみ拝せよ・・・」、「神を試みてはならない・・・」としてあくまでもご自分の立場を人として対応している。ここでもしイエスが神の子として対応されたら、私たちはサタンの誘惑に勝利することはできなかったであろう。人の子としてイエスは勝利を得てくださったのだ。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし・・・-Heb 2:14

またそのわざも次の聖句を見れば人としてなされたことは明らかである。

あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。-Acts 10:37-38

「ナザレのイエス」なる称号がそもそも人としての存在に対するもの。神であるイエスに神が共におられたからとしたら、おかしいだろうに。人のポテンシャルはこれまで私が考えてきた以上のものがあるようだ。そもそも内面も外側も神の形に造られ、神の息吹としての霊を吹き込まれているのだ。堕落以前のアダムは神的な存在と言える。が、罪のため霊が死に、その栄光を失った。しかしイエスは血の贖いにより、その栄光を人間性において獲得された。

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。-1Cor 2:7

かくして私たちの得た栄光は最初の栄光よりもはるかに輝かしいものなのだ。

そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。-2Cor 3:10

私たちの霊は再生され、しかも父・子・聖霊なる神が住まわれる。神の国があるのだ。そこから引き出される価値はどれほどのものであろうか。まことにパウロが祈るごとしである。ここでもマインドが開かれるかどうかが鍵である。

また、あなたがたの理解の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。-Eph 1:18-21

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