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クリスチャンのアイデンティティー

これもちょうどDr.Kさんが論じておられる。いわゆるキリスト教の理解は、私たちは罪ゆるされただけの罪人であるとする。この根拠にパウロは自分をして罪人の頭であると言っているというわけだ(1Tim 1:15)。が、これは文脈を外している。その前で彼は「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」と言っている*1。Are you with me?

では私たちは何者か。私たちのアダムにある古い人は主と共に十字架につけられた。それは死んだ、ピリオド。そしてキリストと共に復活した。それはニュー・クリエイション、キリストにある新しい人種なのだ(2Cor 5:17)。それが罪を犯すことはない(1John 3:9)。それはもちろん霊的存在としての私。しかし、この体は依然として古い創造に属するもの。だから御霊によってその働きを無効にしてもらわないで(Rom 8:13)、魂の意志がこの体に従うとき、時々に罪を犯す(1John 1:8)。が、その時には大胆にイエスの血潮に頼れば良いのだ。かくしてクリスチャンとは時に罪を犯す聖徒なのだ。

これを勘違いすると、自責感に苦しんだり、自分を改善するもがきをしたり、いわゆる聖化に邁進するとか、人格を向上させるために精進するとか、自我を砕くとか、いろいろとご苦労様なことをすることになる。しかし、本来の福音は単純。アダム系列の存在は改善の余地がないので抹殺し、キリスト系列に再誕生させ、新しいいのちを吹き込んで新しい創造とする。個々の罪については主イエスの血潮が用意されている。その罪々は過去・現在・未来のものすべてすでに二千年前に十字架で処理されている。告白はゆるされるための条件ではなく、ゆるされていることの適用なのだ。

では、イエスが言われる十字架を負うこととは何を意味するのか。それは繰り返すが、マインドのトランスフォーメーション(Rom 12:2)。自分のマインドにおけるいろいろな想いと御言葉が矛盾する場合、どちらを選ぶのか。先に紹介したヨハネ14:12の解説にあるように、その事実を自分では経験していないので、御言葉を再検討する必要があるとするのは、自分を神とすること。このように自分を正当化したくなるのもマインドの働き。そのマインドを否むこと。このとき、時には神の許容の範囲で打撃を受けたりもする。マインドは無意識の領域と意識の領域があるが、トランスフォーメーションしてくださるのは聖霊ご自身だ。私たちは自分を正当化するのではなく、マインドを明け渡すのみ。できるだけ早く明け渡すに越したことはない。後は聖霊がなして下さる。

かくして

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。-2Cor 3:18

最後にこの体が贖われるとき、神の子が完全に出現する(Rom 8:23)。それを全被造物が呻きをもって待ち望んでいる。

参考:JAVAと信仰

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以上の理解はすでに著書でも、サイトでも書いていた。鍵はマインドのトランスフォーメーションにあることも。が、私の『真理はあなたを自由にする』における射程は、あくまでも内的葛藤からの解放という点だった。ところが、このニュークリエーションとしての私たちのポテンシャルはさらに広範囲に及ぶものであると知ることになった。それは神の国を地上に現出させること*2。神から私たちに託された資産・嗣業は、個人的な葛藤の解決といった狭い領域にとどまらず、まさに神の子としての能力を発揮し、神のデュナミスを解放する天の門なのだ。実はこの発見はまことにうれしく、励まされているところ。私自身、これまでもポイントは外していないことを確認出来た上に、さらに広大な霊的領域へと導き入れられたと感じている次第。

*1:一応解説しておくと、このことばの真実性を証明するために、罪人の頭である自分ですら救われたと言うのだ。彼は教会を迫害したが、その事実・行為に関して罪人の頭とするのであり、現在のアイデンティティーについてではないのだ。
*2再建主義の富井氏のこの記事(3月21日)は同意できる。モーセ律法の社会司法への適用やポスト・ミレといった部分では食い違うのだが、サタンを足の下にし、今、ここに神の国の統治を実現させる点ではまことに賛同だ。すでにキリストは天と地のあらゆる権威を得ているのだから。

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