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日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 なるほど、あなたがたパリサイ人は、杯や大皿の外側はきよめるが、その内側は、強奪と邪悪とでいっぱいです(ルカ11:39)。

タルムードは古代のラビたちの書いたものですが、幽閉されたラビ・アキバの物語を記録しています。ラビ・ヨシュアが彼のもとに水を持ってきましたが、番兵がその水を半分こぼしてしまいました。洗うためにせよ、飲むためにせよ、あまりにも量が少なく、もしラビ・アキバがその水を宗教的洗浄のために用いると、水が足りないために死に直面することもありました。彼は考えました、「手を洗わずに食事する者は死に値する罪を犯すことになる。私は罪を犯すくらいなら、渇きで死んだほうがましだ」と。
 イエスはそのような考えを厳しく指弾しました、「目の見えぬ手引きども。あなたがたは、ぶよは、こして除くが、らくだはのみこんでいます」(マタイ23:24)。主は宗教的実行厳守に注意を置くとき、律法のもっとも重要な要点(たとえば、義とか憐れみなど)がおろそかにされることを指摘されたのです。これは神の永遠の法則を無視することになるのです。イエスは人々に自分の心を清めること、また手だけを清めるような指導者にならうことがないようにと注意されました。
 神の律法は人を解放し、保護するものです。それは悪しき者から私たちを守るために制限を与えます。指示を与える規則の一つひとつについては、神が与えた個人個人の能力によるのです。それらは私たちを目的からそれることがないようにガードし、組織を乱用する者から守るためのものです。
イエスが示した模範は次のとおりです:もし人々が、人生をより困難にしまた組織の目的に資することがない伝統的な実行に従うように命じられた場合、私たちは宗教的良心の問題として関わる必要はないのです。イエスはそのような伝統には従われませんでした。同時に弟子たちが従わないことについても擁護されたのです。

 主よ、私に律法は殺し、御霊はいのちを与えることを思い起こさせて下さり感謝します。今日、その自由の中に生きるように助けてください。

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