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信はサブスタンスをフレーム化する

今回、基本の基本に戻らされて、結局、信仰、というより信がなんなのか、この再チェックに絞られた。

・信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

・さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

・信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

・さて、信仰とは望んでいることの実体、目に見えないことをあばくことです。

・さて、信とは、望まれている事柄の実体化であり、未だ見ていない事柄を確認することである。

・Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.

・εστινG1510 V-PAI-3S δεG1161 CONJ πιστιςG4102 N-NSF ελπιζομενωνG1679 V-PPP-GPM υποστασιςG5287 N-NSF πραγματωνG4229 N-GPN ελεγχοςG1650 N-NSM ουG3756 PRT-N βλεπομενωνG991 V-PPP-GPN

・[3isG1510.2.3 1AndG1161 2beliefG4102 5of hopingG1679 4 the reality]G5287 of things,G4229 the proofG1650 notG3756 being seen.G991

どれがどの訳とは指定しないが、それぞれ、訳者の解釈が入っていることは明らかであろう。ギリシャ語の対語英訳を見るとKJVが一番原語に近い。ただ"evidence"は"proof"の方がいいかもしれない。

・さて、信とは望まれていることのサブスタンスであり、見ていないことの立証である。(私訳)

サブスタンスに「確信」などの訳語はとにかく不適切。だから「自我を十字架につけてぇっ」とか踏ん張るクルシチャンが登場する。そもそもそんなことができるわけがないでしょうに。すでにつけられたのだ!信は物理的領域と霊的領域をつなげるチャネル、あるいはポータルだ。祈りを続けるうちに、内なる神の国にチャネルが開く。このときサブスタンスに触れるのだ。この感覚が「得た」とか「かなえられた」という表象としてマインドに現れる。

クリスチャンの歩みはみな信による。霊の再生も、魂の造り変え(いわゆる聖化)も、病の癒しも、しるし・不思議も、みなサブスタンスに触れることによるのだ。自我を十字架につけてぇっ・・・などは所詮魂の中の空回りに過ぎない。

私たちはすでに聖にして完全とされたニュー・クリエーション(Heb 10:10-14)。これがサブスタンス。すでに確立されている。

 **

そして主に向く時には、そのおおいは取り除かれ、わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである(2Cor 3:16-18)。これが"proof(立証)"であり、トランスフォーメーション(メタモルフォーゼ)だ。

**の部分にチャネルが開くと、サブスタンスがプルーフされる。この原則は癒しであれ、奇跡であれ、しるしであれ、みな同じこと。そして主は言われた。

 「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。-Mark 9:23

ヘブル11章1節の"faith"には定冠詞がない。つまり別にクリスチャン信仰に限らないのだ。先に超能力者の清田君のことばを紹介した:「スプーンを持ってて、グニャグニャに柔らかくなるイメージが浮かぶと本当にそうなって、ついに切れて落ちるんだ。」彼はクリスチャンではないから、霊の再生を受けているわけではない。あくまでも魂の領域、マインドの中で起きることを語っている*1。が、それでも信は機能するのだ。そもそも人間のマインドにはそれだけのパワーがある。アダムが動物を呼ぶとそれが名となった。名は実質と不可分。アダムが各動物をframe化したのだ。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた(framed)のであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。-Heb 11:3

アダムが語ると動物がフレーム化された。これは神が語ると創造があったことと同じ原理だ。信によって語ることによりサブスタンスがフレーム化されるのだ。6日間の創造はすべて神が語り出すことによった。つまり創造は神の信のフレーム化だ。イエスの受肉も神のサブスタンスが物理的時空間に現出(proof)したもの、つまりフレーム化だ。すべて神のわざの原則は信による。なぜなら信によらないことは罪だから(Rom 14:23)。

「自我を十字架につけてぇ」とか、「私は衰えるがあの人は栄える」とか、きわめてもっともらしいキリスト教の標語であるが、真理ではない。神の信ではすべてが完成している。まずその神の信を持てと主は言われる。そのときサブスタンスが私たち個人個人のレベルでプルーフされてフレーム化されるのだ。どこに私の努力が入る余地があるだろうか。すべては神の信に始まり、神の信によって完成されるのだから。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2

イエスは喜びのゆえに十字架についたのだ!宗教の霊から解かれよ、ニッポンキリスト教のクルシチャンたち!

*1:あるいはある種の霊的領域と関わっているのであろうか?

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