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聖書をそのままに読む、というより聞く

12月以降、私の聖書に対する姿勢は全く変化してしまった。御言葉を読むというよりは聞くのだ。それも変な解き明かしとか解釈を入れず、そのままに、聞くこと。御言葉はいじるべきではない。

たとえば、生まれつきの盲人の癒しでは、イエスは唾を吐き、泥をこねて、彼の目に塗り、シロアムの池に行って洗えと命じた。なぜ?その意味を問うことは不要。ただ、その時には主はそうされたのだ。そして大事な点は、彼がその言葉に従って、目が見えないままに従ったこと。このイエスの言葉(レーマ)に自分を預けたのだ。これが鍵。聞いたことに従うこと

私の右耳の難聴の癒しは、ただ「癒された」と聞くだけだった。私は何もしなかった。右足の麻痺は、最初「イエスの名で命じる」とやったが奏功しなかった。ふと聞くと「右手で腰をおさえて銘じよ」と言われたので、そのとおりにすると体が勝手に動き出し、3回ほど繰り返した後に完全に麻痺は消えた。花粉症では「イエスの名によって、IgE抗体よ、反応するな。ヒスタミン、分泌するな。免疫系、過敏に反応するな」と命じた。するとそのとおりになった。かくして癒しの3パターンを経験したのだ。

鍵はイエスという存在、サブスタンスをとらえること。この方は癒すお方。真実なお方。ご自分の言葉を裏切らないお方。昔も、今も、永遠に変わらないお方。信仰はそのサブスタンスをとらえる。そして語り出すのだ。サブスタンスを語り出すとき、それはレーマとしてこの物理的時空間の中でわざをなす。われわれは言葉を語り出すことにより、あるいは呼ぶことにより、地を従わせるのだ。

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