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トランスフォーメーションは栄光にあって

先の三浦綾子の文章について*1、すでに「心の貧しい者たち」の誤訳でその後をあえて論じるまでもないが、はっきり言う。偽りである!パウロは苦難について何といっているか。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。-Phil 4:12

彼は環境や状況の犠牲者(Victim)ではない、それらを支配したのだ、つまり勝利者(Victor)として。彼はよく肉体のトゲ、つまり病気を抱えていたと言われる。が、病気ではない!聖書は聖書で解釈する必要がある。トゲはサタンの使いだ。それは彼の働きを阻害する存在なのだ。前にも書いたが、彼は直後にこう言っている:

ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。-2Cor 12:10

キーワードは「キリストのために」だ。ここに病気はリストされていない。もし「弱さ」が病気であるならば、キリストのために病気に甘んじている?・・・意味不明だ。人はいわゆる病気や苦難において造り変えられるのではない。これは三浦綾子文学の世界だ。パウロは言っている:

主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。-2Cor 3:17-18

栄光の中でトランスフォーメーションは起こる*2。栄光は前に書いたが、Kavod。すなわち「重さ」だ。神の栄光が望むとき、それは重い。その重さは素晴らしいエクスタシーをもたらす。その主の重いタッチが私たちを造り変える。決して歯を食いしばることによるのではない!主ご自身ですら、喜びのゆえに十字架につかれたのだ。十字架教の宗教の霊から解かれよ!

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2

主の十字架は主の栄光だった(John 7:39)。神のみわざはすべて栄光の中でなされる。栄光の雲が臨むとき、それは私たちに主の臨在を経験させる。旧約の祭司たちのように立っていることができなくなる(1Kings 8:11)。その臨在のエクスタシーの中で、我を忘れ、聖霊が自由に働かれるとき、自然と癒しも起きているのだ。造り変えも、癒しも、すべてはこの臨在の雲、栄光の中の現象なのだ。どこに自分の信仰がどうのこうのと主張する余地があろうか。自分は消えるのだから。

*1:自己憐憫の投影であることは言うまでもなかろう。
*2:マリアが受胎告知を受けたとき、「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます」と言われた。この「おおいます」は"episkiazo?"、主が変貌の山で雲がおおったのと同じ単語だ。つまりマリアの妊娠も栄光の雲の覆いの中で起きた奇跡なのだ。

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