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忠臣蔵人物伝

 大気澄み 朝の光もやわらぎて 風にさらと消ゆ 額汗 -一石

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私が大石内蔵助をこよなく慕うことは何度も書いた。すでに「昼行灯」と揶揄されていた彼は、大義を控えて、撞木町(地味な場所だそうだ)で「浮き様」として浮橋と浮名を流し、「大石の蔵とはかねて聞きしかど よくよくみればきらず蔵かな」との落首であざ笑われた。

彼の遊びが敵の目をくらますためであったのか、ホンネであったのか、男たる私から見ると単なる擬制ではないとも思われるが、事実部下たちは大石の廓通いを抑えるために、18歳のお軽を大石の側に置いた。大石も若いお軽を愛でて、身ごもったようだ。・・・とつい、大石に心が向くのだが、四十七士のそれぞれにもドラマがある。

ちなみに書は大石の手になるもの。義士たちの世話をした堀内伝右衛門が切腹直前の内蔵助に頼んで書かせた源実朝の句。

武士の矢並つくろふ 小手のうへにあられたはしる那須のしの原

例えば弓の名手だった神崎与五郎。彼の逸話として有名なのは「成らぬ堪忍、するが堪忍」のいわゆる「韓信の股くぐり」。いよいよ事を成就せんと東下りする途上、箱根の於玉坂を過ぎた処で馬喰の丑五郎から言い懸かりを付けられるも、事を荒立てると役人なども呼ぶ事態になるゆえに、大事の前の小事と「詫び証文」を書いたとする逸話。その際、丑五郎の股をもくぐったとする話もある。丑五郎は討ち入りの後に自分の股をくぐったその男が神崎与五郎と知り、生涯をかけて彼の墓を守ったとされる。多分、韓信の逸話と一緒にされているのだろうが、このような話に私は実に惹かれる。

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この場所には現在も有名な甘酒茶屋がある。私も何度か訪れている。ご主人は江戸時代から数えて12代目だとか。人間、何を大事とするか、こういった場面でその本質が露わになる。これも「正気の歌」の流れかも。

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