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ビデオ個室放火事件の意味するもの

朝は空気がピリッと締まって来た。緑と黄色の配合も徐々に入れ替わりつつある。

ビデオ個室で放火、15人が焼死。ほとんどは個室の中で焼かれていたらしい(→記事)。耳はイヤホンで、目は映像で、周囲とは完全にセンソリーデプリベーション(感覚遮断)状態。火災が起きていることにも気がつかないままに焼かれたようだ。究極のカプセル化。ベデオ個室やネットカフェなる処は感染症のリスクなどもあるので、こんなところに潜り込んで寝泊りをすること自体が考えられないのだが、その考えられない事をしている(せざるを得ない)人々が社会にはいることを改めて意識した。身と心の置き所を喪失した疎外された人々がいるのだ。

そして彼らのせめてもの居所にあえて火を放つ者。容疑者は精神鑑定の必要もあるようだが、前々から指摘している通り、こういった社会からこぼれた人物が、最後の居場所を得んとしてニッポンキリスト教界に侵入して来るだろう、否、すでに相当に侵食されている。病んだ人々は教界がめんどうを見切れるものではない。愛と寛容をちらつかせるほどに、彼らは増長するだけなのだ。世で起きていることは教界でも起きるし、その逆も言える。

あの佐世保銃乱射事件は私が予想した数日後に起きてしまったが、"リバイバル音頭"で麻酔された教界でもまだまだ悲惨が起きる。なぜならニッポンとニッポンキリスト教はフラクタル(相似形)だから。アキバ事件も同じ性質を帯びており、今回の事件もさらなる悲劇の序章に過ぎないのだ。なぜならビデオ個室などと言う場所でしか心の安らぎを得られない人々が、世にも教界にも少なからずいると言う悲劇がすでに存在しているからだ。目に見える事柄はすでに潜在するはるかに多い目に見えない事柄の現れに過ぎない。

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zion

ビデオ個室の元祖は統一協会です。

  • 2008/10/03 20:36
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