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シンクロニシティ

ユングの提唱した概念で、竹内まりやの曲でもあるが、同時性というか、同期性というべきか。面白いことに、Salt氏と山谷氏とリチャード氏、そして愛知県のさっちゃんが同じことを述べておられる。

山谷氏: アダムとエバは、「木の葉」を綴り合わせて、裸を覆いました。
 「歴史」において、この「木の葉」は、次々と姿を変え、衣服となり、城壁となり、剣と盾となり、軍隊となり、宗教となり、王国となり、文明となり、貨幣となり、金融となり、資本となり、産業となり、帝国となり、発展を遂げました。
 新約聖書の光の中では、これら、人間の努力によって創造せられた「諸価値」が、終極において、神の火によって試されることとなります。

Salt氏:神から始まったものだけが残り、人が企てたものは失せていく。それでいい。

愛知県のさっちゃん: 私も同じところでアーメンと感じました。
 同時にヨハネ一章「すべてのことは彼を介して生じた。彼をさしおいては何一つ生じなかった。彼において生じたことは、いのちであり・・」を思い出しました。彼から始まったものがいのちであり、人を真に生かし、いつまでも残るものなんですね。いつの時も、「人の企て」がキリストの体を傷つけてきたんだと思います。

リチャード氏
>愛知県のさっちゃん
まったくその通りですね。
ヨハネ15章に、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とある通りで、イエス様抜きで何事かを為した、と思っても、それは神の目から見れば、実は何も為していない事であり、永遠に残るのは、主にあって為した事だけだと思います。

もうひとつSugar氏のところにもメールがありました:

 人が生まれつき持っているのものは、たとえそれが素晴らしいものに見えたとしても、神の目にはアダム来のもの、アダム起源のものにしか過ぎません。神の目には唯一「十字架を経たものだけ」が尊いのです。
 そしてその為には主に信頼していればいい、と言うことが分かったのです。主に任せているだけでよいだなんて、これは何とホッとすることでしょう。
 また今は、良いとか悪いとかにあまりこだわらなくなったので、心がとても軽くなったことも事実です。

Comment

リチャード

なるほど!
今、神様が教えようとしておられる事が、すっきりまとめられたような感じです。

  • 2008/10/29 08:01
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愛知県のさっちゃん

>また今は、良いとか悪いとかにあまりこだわらなくなったので、

よいとか悪いとか、正しいとか間違っているとか、そこに縛られている時って本当に自由じゃない。
それさえも委ね、やりくりしない自由な心、いいですよね
交わりの中におられる主を賛美します♪

  • 2008/10/29 22:44
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山谷

ハレルヤ!
人は裸で生まれ、生きている間は「木の葉」でいろいろ自分を飾り立てますが、死ぬときはまた裸になって、神に帰って行くんですよね。
神の前に立たされたとき、わたしたちが着ることができるのは「小羊の義の衣」だけです。
でも、地上にいる間は、断食裸行僧になる必要はなく、「園にある木からは何でも取って食べてよい」と言われていることを感謝します。ただし、何を食べても、自分が裸であるのは変わらないことを、忘れないでいたいと思います。

Luke

こういった双方向のやり取りって、何だかうれしくなりますね^^木の葉が取れると、自由を楽しめるようになります。何しろキリストを着ていますから。

  • 2008/10/30 21:10
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