シンクロニシティ
- 2008/10/28 22:07
- Category: 信仰
ユングの提唱した概念で、竹内まりやの曲でもあるが、同時性というか、同期性というべきか。面白いことに、Salt氏と山谷氏とリチャード氏、そして愛知県のさっちゃんが同じことを述べておられる。
山谷氏: アダムとエバは、「木の葉」を綴り合わせて、裸を覆いました。
「歴史」において、この「木の葉」は、次々と姿を変え、衣服となり、城壁となり、剣と盾となり、軍隊となり、宗教となり、王国となり、文明となり、貨幣となり、金融となり、資本となり、産業となり、帝国となり、発展を遂げました。
新約聖書の光の中では、これら、人間の努力によって創造せられた「諸価値」が、終極において、神の火によって試されることとなります。Salt氏:神から始まったものだけが残り、人が企てたものは失せていく。それでいい。
・愛知県のさっちゃん: 私も同じところでアーメンと感じました。
同時にヨハネ一章「すべてのことは彼を介して生じた。彼をさしおいては何一つ生じなかった。彼において生じたことは、いのちであり・・」を思い出しました。彼から始まったものがいのちであり、人を真に生かし、いつまでも残るものなんですね。いつの時も、「人の企て」がキリストの体を傷つけてきたんだと思います。・リチャード氏:
>愛知県のさっちゃん
まったくその通りですね。
ヨハネ15章に、「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。」とある通りで、イエス様抜きで何事かを為した、と思っても、それは神の目から見れば、実は何も為していない事であり、永遠に残るのは、主にあって為した事だけだと思います。
もうひとつSugar氏のところにもメールがありました:
人が生まれつき持っているのものは、たとえそれが素晴らしいものに見えたとしても、神の目にはアダム来のもの、アダム起源のものにしか過ぎません。神の目には唯一「十字架を経たものだけ」が尊いのです。
そしてその為には主に信頼していればいい、と言うことが分かったのです。主に任せているだけでよいだなんて、これは何とホッとすることでしょう。
また今は、良いとか悪いとかにあまりこだわらなくなったので、心がとても軽くなったことも事実です。
リチャード
なるほど!
今、神様が教えようとしておられる事が、すっきりまとめられたような感じです。