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約束か契約か

先に紹介した小室直樹氏の『日本人のための宗教原論』はかなり正確にキリストの効用と病理を指摘している。無条件の愛と赦しを説きつつ、異教徒や異端者に対する残虐性を見せる乖離性など。そしてキリスト教は啓典宗教であり、かつ契約宗教であると指摘。小室氏は日本人には契約などは水臭いのであって、人間関係に対する信頼を基にした約束を尊重する民族であるとして、この辺がキリスト教に対するアレルギーのルーツであると言う。

確かにキリストはそうかもしれない。が、聖書の純粋な啓示はそうではない。人類の堕落に対して神は救済の道を提供しているが、それは元々は契約によるものではない。約束によるのだ。アブラムを召したとき、神は約束を与えられた。それは小室氏の言うとおり、相手の人格に対する全幅の信頼を寄せる双方向の関わりである。約束はキリストを意味し、キリストはいのちであった。律法はその430年後に付加的に与えられたに過ぎない。しかも律法は約束を無にしない。むしろ約束の実体であるキリストの影(タイプ)であり、キリストへともたらす養育係りだったのだ。その本体が到来された以上、それはすでに不要である。

ファイル 649-1.jpg代わって上位互換のさらにすぐれがLawが導入された。これがいのちの御霊の法則である。このあたりはかつて再建主義の富井氏と討論したときに指摘した(図参照)。キリストは契約による啓典宗教である、が、キリスト信仰は約束によるいのちの世界である。その約束の成就と契約化が新契約の世界である。新契約とは約束の実体化なのだ。その差ははなはだしく大きい。そしてこれに気がついた人は幸いである。約束は人格と人格の関わりと信頼と尊敬によってまっとうされる。それが信仰である。イエスの道はきわめて日本人的に好む生き方なのだ。

私の言おうとすることはこうです。先に神によって結ばれた契約は、その後四百三十年たってできた律法によって取り消されたり、その約束が無効とされたりすることがないということです。
なぜなら、相続がもし律法によるのなら、もはや約束によるのではないからです。ところが、神は約束を通してアブラハムに相続の恵みを下さったのです。
では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを通して仲介者の手で定められたのです。
こうして、律法は私たちをキリストへ導くための私たちの養育係となりました。私たちが信仰によって義と認められるためなのです。
しかし、信仰が現われた以上、私たちはもはや養育係の下にはいません

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