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法前仏後と神前法後

小室氏の『宗教原論』は実に面白い。彼いわく、「仏教は法前仏後、キリスト教は神前法後」。なるほどキリスト教と言うよりは、キリスト者の立場はそのとおり。つまりここでも何度も紹介した道元の『正法眼蔵』の「現成公案」に「仏道をならふとは自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるとは、心身脱落して、万法に証せらるることなり」とあるとおりだ。一言で言えば、法に身を委ね、任せること。このとき我執が邪魔をする。よって万法に証せらるる要諦は我執を離れること、すなわち心身脱落だ。しかしてこの万法に証せられし者が仏なのだ。

要するに小室氏も指摘するとおり、仏とは万物の創造者でもなく、礼拝対象でもない。仏教徒にとっては仏とは客体ではなく、任せ切れた者、つまり主体なのだ。かくして法が仏の前にある。しかし「なぜ法があるか」とは問わない。それを問うこと自体が迷妄なのだ。しかるにキリスト者はその法のルーツを問う。これが神(この訳は小室氏も指摘するとおり、よろしくない。むしろ在者あるいはもっと端的にとでも言うべきか)であり、すべてはこの人格的存在に由来する。ゆえに神が法の前に来る。

仏教の空の理論によれば、世のものはすべて実体がない、ただ因縁によって存在に至っただけのだ。その幻想に心を囚われることが煩悩であり、すべての苦のルーツである。心を何にも留め置かないこと。つまり流れる心。これが覚者である。私は前から何度も言っているとおり、自分を禅者であると思っている。禅が仏教に含まれるならば、別に仏教徒と言われてもかまわない。問題は私が自分を委ねる法の種類あるいは領域である。それは第一の人アダムから受け継いだ罪と死の法ではなく、最後のアダムにして第二の人であるキリストから受け継いだいのちの御霊の法である。この法に自らを証せられる者が実はキリスト者であり、その真理集合は必ずしもキリスト教徒のそれとは一致しない。

かくして私は仏を志向する者であり、禅者なのだ。ただ道元と異なるのは、その生きる法の領域の違いである。法に対する姿勢はまったく同一なのだ。面白いことにブラザー・ローレンスも「真に任せた者には苦も楽も同じだ。過ぎ去ったことは記憶に跡かたもない」と証している。つまり彼は主にあってさらさらとただ現在に生きていた。後ろを顧みて後悔し、前を思い計って心配するのが凡夫の生。今から遊離している。しかし、今、此処にあって、万法に証せらるる者が禅者であり、その諸法の中のいのちの御霊の法に証せられる者がキリスト者である。この姿勢にあって前後裁断せり。永遠の今が展開する。そもそも私たちのいのちの源泉たるなる方は、永遠の現在にいます方なのだ。

意識の扱い方について-キリスト者と禅者の類似と相違-

さて、ではこれからSix Treesへと・・・。
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追記:米Big3が倒産寸前、融資法案は否決。300万人が路頭に迷う。ニッポンでもホームレスが増加し、スラム化もあり得る時勢にもかかわらず、クリスマスのイルミネーションで華やいでおりました。

Comment

P&C

はじめまして。5月から愛読してます。

前後裁断の記事を読み、ミヒャエル・エンデ『モモ』が頭に浮かびました。
一掃き一掃きに心を注ぐ道路掃除夫ベッポ、時間泥棒と戦ったモモを思い出したのです。

Luke

はじめまして。

そうですね、「一掃き一掃きに心を注ぐ」-実にいい言葉ですね。

  • 2008/12/16 23:09
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