Entry

トップ > 信仰 > 善という罠

善という罠

と言う記事をCandyさん(愛知県のさっちゃん)が書いておられます。この「善」を標榜して、人間を束縛するのが宗教であり、それにイエス・キリストの名と聖書で補強するのがキリスト教です。実に深い洞察の記事ですので、ご紹介します:

主とひとつである自由さの中を生きる

また、ご主人の腹部腫瘍がきれいに消失している事が分かったそうです。励まされますね。ハレルヤ!

Comment

Luke

BBSにも書きましたが、「善と悪の識別について」―東名高速様のご質問。とても大切ですので、こちらでも再掲しておきます。

「善悪の知識の木」による善悪の判断と、

ヘブル5:14―固い食物は、善悪を見分ける感覚を経験によって訓練された、一人前の大人のためのものです。

の違いですね。私たちはいわゆる宗教・道徳の枠組みでの善と悪ではなく、この御言葉にあるように、「固い食物=御言葉」と「経験によって訓練された感覚」で判断するのです。「感覚」はいのちのものです。簡単に言って、内なるキリストのいのちが喜ぶことを選べばよいのです。主も十字架につかれたのは、その喜びのゆえです:

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-ヘブル12:2

このいのちの喜びは、肉のものとも世のものとも違います。肉と世、そしてサタンの本質は自己栄光化にありますが、いのちの善悪は自己を退けることにあります。今のニッポンキリスト教はいわゆる救霊のためと称して、センセイたちが自己の栄光を求めているでしょう。それを「善」の旗印として。だから「クリスチャン・トゥデイ」すら見極める事ができないのです。

  • 2007/11/24 08:46
  • Edit
Access: /Yesterday: /Today: