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Dr.Lukeの一言映画評

ファイル 730-1.jpgダニエル・クレイグ主演の『ディファイアンス』。Difianceとは抵抗・反抗の意味。ナチスのユダヤ人狩りに抵抗し、1,200人のユダヤ人を救ったユダヤ人のビエルスキ三兄弟の物語。もうひとつのシンドラーのリストと言われ、実話。ただの農夫と商店主だった普通の無名の兄弟が「人間として生き、死にたい」と願うことから始まったナチとの絶望的戦い。ベラルーシの極寒の環境で生き延びるユダヤ人たちの群れ。最初は数名だったが、ゲットーから解放された者や逃げてきた者たちを保護し、ついには1,200名の共同体が生まれ、そこには病院や学校まで備わっていた。かくして彼らの保護によって救われたユダヤ人からその後数万人のいのちが生まれた。つまり彼らはこの数万のいのちを救ったのだ。新007のダニエル・クレイグが実にシブイ。

ここにヘブル書7章に

そこで、言ってみれば、十分の一を受けるはずのレビですら、アブラハムを通して十分の一を納めたことになります。なぜなら、メルキゼデクがアブラハムを出迎えたとき、レビはまだこの父の腰の中にいたからです。

とある包括の原理を見ることができる。十分の一を受ける権利を持っていたレビですら、アブラハムの腰の中にいた時に、アブラハムが捧げることにより、メルキゼデクに対して捧げ物をしたのだ。すなわちここでメルキゼデク系祭司がレビ系祭司に勝ることを立証しているのだ。これが神の視点である。

そもそもアダムが罪を犯した時、アダムの子孫である私もアダムの腰の中で犯したのだ。またキリストが最後のアダムとして死なれた時、私もキリストの中で死んだのだ。そして第二の人としてキリストが復活した時、キリストの中で私も復活した。これによりキリストが義なる行為をされた時、キリストの中で私も義とされた。私の努力の問題ではなく、一体とされること。これがアダム系からキリスト系への転換であるが、ここにも包括の原理が働いている(→包括の原理について祭司制と律法についてJAVAと信仰)。

地上にいる間に何人に福音を伝えて、何人が救われるか、その数を誇る人々がいるが、もしあなたが生涯においてひとりを導いた時、たったひとりだけと思ってはならないのだ。彼から生まれるであろう多くのいのちをも導いたことになるからだ。かくして神の目から見たとき、地上において千人教会を作るとか、受洗者が何名とか、まったく本質ではないことが分かる。今、ここで、あなたが出会うひとりの人に対して、あなたと言う存在によってキリストご自身を紹介できれば、神の目にそれで十分なのだ。後は聖霊の仕事であり、その人からさらなるいのちが連なって誕生するであろう。いのちは数の問題ではなく、次へとつなげることが本質である。

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