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11年目の雑感:「苦しみの純度」

何気にこのサイトを開いてから、早いものでこの10日で10年が経ち、11年目に入ってしまった。まあ、いろいろな人に出会い、様々な事に出くわしたが、よく続いているものと、自分でも意外なのだ。このBlogも5年くらいになると思うが、サイトよりこちらが主な発言の場となりつつあり、私の活動はすべてここで公開するようになった。まあだいたいはヨタ話で、それでも10回に1回位は皆さんに益になることも書いているかも知れない。

さて、この10年を振り返ってみると、ニッポンキリスト教という世界と接触してみて、いくつかの感慨がある。

①とにかく信徒牧師問わずにビョウキ(Sicko)の人が多いこと。うつ病はもとより、妄想性、境界性、自己愛性、依存性、強迫性・・・人格障害などなど。私の本『真理はあなたを自由にする』において「教会は人間の博物館」と書いたが、もっと正確には「病理標本博物館」と言うべきだろう。

②聖書の読み方が千差万別であること。例えば「最初の祭司制度による律法は廃棄された」と書いてあるのに、律法で教会ばかりではなく、世界を治めよと主張する人がいたりする。同じ御言葉を読みながらも、話が通じていない不思議。言語明瞭意味不明の世界。

その他については「ニッポンキリスト教の七不思議」を参照してもらいたいが、10年前から私が警鐘を鳴らしてきたことが、ここへきて見事に"実"を結んでいる。これからこの業界はその悲惨が行き着くところまで行くだろうが、10年前にはまだ期待があったのだが、今はこの業界に対して期待はまったくない。これは私の内での大きな変化である。

その代わり、先に書いたような「緑の双葉」があちこちに芽生えるビジョンは得ることができた。そしてこのいのちの拡散は、すでに誰にもコントロールなし得ないほどに、あちこちに小さなしかし着実に進行しているとの手応えを感じている。Salt氏も書いているが、各地で勝手に、私とも、誰とも関係なく、ただ主の御心のままに集まり、交わり、成長していくことであろう。

一方で、今のニッポンキリスト教の貧しさは目も当てられない状態が展開している。これはまだまだ序の口であり、高くされた人は低くされ、何かを誇っている人々は散らされ、多くの人々が傷つき、信仰を捨てる者もあるでしょう。その中でまことの牧者を見出した者は幸いである。ウォッチマン・ニーはその黙想集『荒野に宴をもうけ』のある日に、次のように語っている:

行かせることはない。あなたがたが彼らに食べる物を与えなさい。-マタイ14:16

霊的な貧困と欠乏は教会における最も大きな二つの問題です。ほとんどのクリスチャンはあまりにも霊的に貧しいため、自分の必要を満たすことすらできません。ああ、どうぞ、誰かが彼らを助けることができますように!しかし貧困は結果であって、原因ではありません。また欠乏も結果であって、原因ではありません。

貧困と欠乏の原因は御霊による訓練の欠如によります。霊的に豊かな者、ただ彼らだけが、その訓練を知っているのです。彼らは神と共なる霊的歴史を持っております。それは彼らが御体のために苦しみを経験しているからです。彼らの病、彼らの家庭の問題、彼らの逆境、これらはすべてキリストが彼らのうちで増し加わるための配剤なのです。つねに何かを与えることができるのはそのような者たちです。

反対にそのような訓練を経ていない者たち、すなわち安易にして贅沢な生き方を選ぶ人々は、霊的には欠乏しかつ貧困に落ちているのです。貧しい者や必要を抱える者が彼らのところに助けを求めて来ても、それはまったくの徒労に終わります。彼らからは何もあふれ流れるものがないからです。

いのちがその人から流れ出るためには、神と共なる歴史を持っている必要があり、そのためには御霊による訓練を受け、御体のために苦しむ必要がある、と。現状を見て、この御体のための苦しみをどれだけ主イエスと共有することができるか、それは私たちの心の動機にかかっている。前にVIPクラブがアーサー・デモス財団の『人生で成功するための神の方法』なるパンフレットを送ってきたが、嗚呼、何と言う霊的貧困。しかも自分が貧困に落ちていることに気がついていない。貧しくなられた主を打ち捨てて、自らの成功を、信仰によって達成せんとする愚かな人々。彼らの上には時至るならば、主の厳粛な御手が置かれるであろう。彼らの貧困が暴かれるためである。

最近、私の内側は上の着実な手応えとともに、ますます重くされている。主の御名が地に落とされている現状、うめきが常にあるのだが、それを言葉になし得ない忸怩たる思いが常に私の内側を支配している。しかしこれがもし、僅かばかりでも主のうめきを分かち与えていただけているのであれば、私は幸いである。

あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。

つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。

私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかり

ですから、私は、あなたがたのために受ける苦しみを喜びとしています。そして、キリストのからだのために、私の身をもって、キリストの苦しみの欠けたところを満たしているのです。キリストのからだとは、教会のことです。

今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。

私のミニストリーも、今週のメッセージでも語ったが、ひとつの節目を迎えつつあると感じている。これまである意味キリストを楽しむ面を強調していたが、これからはキリストの苦しみを共にする面にウェイトが移るような予感がある。自分のための空転する苦しみは不毛であるが、主のための苦しみであれば、いのちを産出するだろう。いわば<苦しみの純度>が問われるステージに入っていると思うのだ。主の御心があるように。

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  • 2009/03/18 00:03
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細木

Dr.ルークが「緑の双葉」と期待している動きと大変よく似ているのに、内実は自己実現へのうめきであったりするようなものも多発していると思います。Dr.ルークのような訓練を受けたもしくは見識の有るリーダーの存在は不可欠であると思います。リーダー達の中には、すごく勉強しているのに的外れというケースも有るように思えます。

  • 2009/03/18 00:44
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Luke

>>Vさま
情報を感謝です。私もあの方からは脅し的な迫られ方をしたことがあります(893みたいでしたね)。あの系統には、彼らの雑誌も含めて、ある種の怨念と言うか、にじみ出る不気味さと怖さを感じております。

>>細木さま
そうですね、最後はセルフかキリストかの選択です。しかしながらこうして問題意識を共有できる方々と出会うことができたことは大きな励ましです。

  • 2009/03/18 08:10
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kawa

ニッポンキリスト教では預言者が罪を犯し続けた神の民に対して十字架を負った歴史は犠牲を伴った立派なことであったとして結構なことですが,逆に自分の家を建て良い暮らしをした預言者はタブー視されてきました。結果、教会はひどい病気を患っている人ばかりで溢れ貧乏人で構成され普通の信者が教会に居場所がありません。それにもかかわらず、何故クリスチャンが何の得にもならない「十字架」に価値を置くのでしょうか?少なくとも十字架には主体的積極面が隠されており、KFCにはニッポンキリスト教の十字架を負える力量があり、神の啓示があり、キリストという問題解決者がいるというエビデンスです。少なくとも、Dr.Lukeの礼拝メッセージはニッポンキリスト教の十字架を負って続けるべきです。

  • 2009/03/22 07:36
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Luke

ご無沙汰です。ありがとうございます。私のメッセージは続けるとは思いますが、兄弟姉妹の自立を優先したいのですね。すでに出て行かれて、各自の主からの召しに応えている兄弟姉妹もけっこうおられます。原則は散っていくこと。タンポポの種も一箇所にまとまっているのはおかしいでしょう。綿毛は風の吹くままに散っていくのです。

  • 2009/03/22 08:23
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