Entry

トップ > 信仰 > 倒錯の時代を生きる

倒錯の時代を生きる

前々から今日のニッポンキリスト教は倒錯を起こしていることを指摘してきた。いわゆる「人は神のVIP」、信仰を用いて人生の幸いや成功を得ようとするキリスト教徒たち。座標軸があくまでも自分にあるのだが、それにすら気がついていないほどの病理の深さ。かくして「砂糖まぶしの福音」がはびこっている。人が尊いから神は独り子を十字架につけて私たちの身代わりとされた。ノー、アブロリュートリー・ノー!十字架は第一義的に神の証だったのだ。それは神の愛と義の証と、神ご自身の満足のためだった。

一昨日電話を下さった方に質問をいただいた、「ヘブル書にある固い食物とは何ですか?」と。私は「基準を自分から神へと置き換える必要があることを示す御言葉だと思います」とお答えした。真理には、例えば「神は愛であり、あわれみと恵みに満ちている」とする甘い流動食のような言葉もあれば、「自分の体を生きた供え物として捧げよ」とする固い部分もある。信仰とは選択であり、その究極はこの体を文字通り神のために捧げる殉教に至るわけだ。固い食物を消化するためには、どうしても座標軸を神へと移す必要がある。このためには自己を否む経験、すなわち十字架へと立ち返らざるを得ない。

今日は「教会ビジネス」が蔓延り、いわゆる聖会や主日礼拝に動員した人数で牧師たちのステータスが決定される時代。下にzionさんが「教会債」のコメントを下さったが、まさに「教会ビジネス」の象徴。ある大きな"教会"の有名牧師は、ひたすら落語を聴いて説教に磨きをかけているそうだ。しかしそれらのサル山社会の牧師たちを非難する前に、いわゆる信徒らが自らの自立性の欠如や甘えの構造を省みる必要があろう。

教会とは私たち自身であり、この体はキリストの体であり、この体を持って具体的に、自立的に、自らの自由意志によって、今、ここで主の招きに応じるかどうか、ここに私たちの地上での歩みが決定され、いずれ主の前での査定を受けるのだ。その時、「教会ビジネス」の牧師たちや甘えの構造でベタベタの信徒たちは、いかなる申し開きをするのだろう。Mr.Sugarがこの点を論じておられるので、一読をお勧めする。

それは、神とわたしにとって、その日までの「私のための神」から「神のための私」への一大転換の日となるのです。

献身(→http://yamaxst.blogspot.com/2009/04/blog-post_04.html

Comment

zion

本当に北はロケットを発射したのでしょうか?
内なる声はYES?NO?、、、

  • 2009/04/05 17:44
  • Edit

23

あ、私は教会にではなくイエスキリストに献身していますw

  • 2009/04/05 20:27
  • Edit

Luke

アーメン。教会(=召された者たち)は私たち自身ですから、献身しようがありませんね。かくして献身の対象を間違えるとトンデモない方向へと行ってしまうわけです。それは昨今のニッポンキリスト教を見ると分かるとおり、まさに悲喜劇です。

  • 2009/04/05 20:50
  • Edit
Access: /Yesterday: /Today: