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自己の病理の極み

秋田の幼児殺人事件については、このブログでも畠山鈴香の犯人の可能性を指摘し、果たしてそのとおりであったわけだが、前にも指摘したが、ファイル 801-1.jpg彼女は人格障害の典型的症状を見せている。彼女はカウンセラーに対して、「どうして人を殺していけないのか分からないで苦しんでいる」と手紙を書いている。今回無期懲役の判決が出たが、「無期だけは嫌だ。いつまでがまんすればいいのか分からないから」と主張して、上告した(→記事)。

この言葉に彼女の病理の本質が浮き彫りになっている。つまり彼女の世界観は自己がすべてなのだ。これが人格障害者や病者の住む世界。座標軸はすべて自己にある。かくして彼らの内的世界モデルはすべて自己を中核とし、価値観や判断・行動基準はすべて自己にある。しかもその自己像もかなり歪んでおり、したがって世界モデルも歪む。この歪みが彼らの言動の理解不可解性を理由である。

どうもこういった人物が増加傾向にあることを感じているが、特にニッポンキリスト教界には多いことは前から指摘しているとおり。こういった人物が跋扈するこの業界は、実質的にすでに崩壊しているが、その事実から目をそむけ、表向きだけ懸命に飾り立てようとするわけ。今後の混乱と狂気にあってクリスチャンの篩い分けはさらに進む。牧師たちの悪事を告発する風潮もますます強まっているが、実は告発する側も同じ要素を持つ。馬○と阿○の・・・とっとっと、やめておきます。とにかく関わり合いになる事自体を避けるべく、ニッポンキリスト教という箱からのエクソダスをひたすらお勧めする次第。

※彼女のような状態を「自然の自明性の喪失」と呼ぶが、キリスト教によってMCされると同じことが起きる。当たり前が当たり前でなくなるのだ。かくしてすべて演技と虚勢になるわけ。

Comment

細木

人間は誰でも心の持ち様で地下鉄サリン事件を起こした人達のような人間に変わる素地を持っています。それを無視して彼らを「きちがい」と表現したクリスチャン・メディアに抗議の電話をしたことがあります。受付の方は困惑していましたが。

「こっちはまとも」と信じきっているような人達ほど用心してしまいます。

  • 2009/04/09 16:01
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23

偽キリストによってMCされても同じことが起こりそうですね。
クリスチャントゥデイやベレコムや財経新聞、
ブリーズキャストやクロスマップに関わっている連中のようにw

  • 2009/04/09 21:04
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Luke

今日ではいわゆる「信条告白」なるものは信頼できませんし、「正統教義」や「正しい教え」なども要注意です。問題は「善悪の路線上の事象」なのか、「いのちの路線上の事象」なのか、です。私は信仰に関わる事象をすべて生命現象としてとらえていますので、いのちの自然さが基準となります。マルコ書にあるとおりです:

神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。

「人手によらず育つ」と明確に書いてある。人が作ったものはすべてフェイク。神と人を分ける絶対的相違は「いのちを造れるか、否か」にあります。またこれが宗教といのちなるキリストを分けるメルクマールでもあります。

  • 2009/04/09 22:03
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無名の罪人

言わずもがな、細木さんのコメントが本質を突いていると思います。人は、誰も神の前に、あの取税人の立場以外にはあり得ません。それ以外の何かがあると思うなら、それは錯覚に過ぎず、それこそがいのちなるキリストとの隔ての壁に他ならないと思います。
神から見れば、畠山被告も、私も、Luke氏も、誰も、単なる罪人です。ただ、キリスト、我らを憐れみたまえと祈るばかりです。

  • 2009/04/10 00:25
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Luke

うーむ、まあ、これが典型的キリスト教徒の反応ですね。かくして教界に大手を振ってビョウキが蔓延るわけです。

  • 2009/04/10 08:02
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細木

念のためにお断りしておきたいと思います。私の最初のコメントは、皆同様に罪人だという意味ではありませんでした。人間の脳は誰でも同じように反応しているので、インプット次第で誰でも悪い方向に行くことを忘れるべきではないという意味合いです。

  • 2009/04/11 00:24
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無名の罪人

確かに、人間から見れば、罪には程度もあり、それによって社会に裁かれるのは当然です。
しかし、神から見るならば、私たちはキリスト以外に何の立場も持ちえず、あの取税人の祈りしかあり得ないということです。
裏返して言えば、神は本当に愛であるのか、神は愛であると言いながら、心の底では、実は神は残酷な方であると思っているのではないのかということです。
それを突き詰めれば、神の愛する対象に、ヒトラーや畠山被告も含まれるのか否かということです。
もし、含まれないなら、神は本質的に愛ではあり得ず、神の愛も人間側の何か、人間の条件によることになります。
しかし、含まれるなら、ヒトラーや畠山被告のためにも、ただ「我らを憐れみたまえ」と祈る以外にはあり得ません。それが、愛するものの唯一の態度です。
「愛するものは神を知る。なぜなら、神は愛だからです。」
もし、神が愛でなければ、いったい、敵を愛し、迫害するもののために祈れとは何の意味を持ちえましょうか。
もし、神が愛でないなら、どうして、私たちは本当に神に安息することができましょうか。
もし、神があの放蕩息子の父でないなら、放蕩することを知りながら財産の分け前を与え、出て行くことをゆるし、息子が帰ってくるのを今か今かと待ちわび、帰って来たときは、赦しを求める息子の言葉もさえぎるほどに、抱きしめ、何度も口付けし、最上の着物と宴会を用意させるほどの、ある意味、権威もなく甘すぎると見えるほどの親が神でないなら、放蕩息子である私たちはどうやって神の元に帰ることができるのでしょうか。
ただ、私たちを心の底から回心させるのは、「父の元では雇い人さえも有り余るほどの食べ物を与えられている」という父の愛であり、神が徹底して本当に愛であることを知る時のみです。
「どうして人を殺してはいけないのか」、それは神が本当に愛だからです。

  • 2009/04/11 01:35
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Luke

おっしゃりたいことは分かりますが、どうも論点のヒエラルキーが微妙にずれているようです。

なお「精神疾患と福音」についてはこちらをご参照ください:
http://www.kingdomfellowship.com/cgi-bin/diarypro/diary.cgi?no=111

  • 2009/04/11 07:35
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