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ニッポンキリスト教用語の罠

Sugar氏のところに面白い記事がありましたので、転載させてもらいましょう。題して「辞められない」。

「クリスチャンは辞められない」
これはまた「教会」にも言えることです。
「聖書で言っている教会」は
人がいったん「その中に生まれたなら」
辞めることはもう不可能です。
入会や脱会など無用ですし関係ありません。
これを真に霊の目で見るなら、もはやその人の
右往左往は完全に停止するでしょう。

最近私はその混乱を避けるため、教会でなく
エクレシアと言う原語を使っています。

「物質の十字架を印とするソサイティとしての教会」
は辞めることが出来ます。しかし、
エクレシアは永遠に辞めることは出来ません。

よくニッポンキリスト教では「教会籍」とか、「転会」とかいう用語が用いられる。あるいは「教会を換える」とか「教会に行く」とか。これらがまったくナンセンスであることは教会(=エクレシア)を霊の目で見た人ならば容易に分かるはず。「人間を換える」とか、「人間に行く」とか、まったくナンセンスでしょう?

そしてこのことが真に分かれば、いわゆる日曜日ごとの「礼拝」などどうでもいいことも分かるはず。さらに「牧師」だの、「カバリング」だの、「教団」だの、「教派」だのも、どうでもいいことも分かる。なぜなら私がエクレシアそのものなのだから。この記事の方のように、「教会」なる意味不明の用語は止めた方がよいかも知れない。エクレシア、すなわち、召し出された者たち、を使う方がよいのでしょう。

かくのごとく、霊的真理を日本語で記述し、考えた時点で、罠と束縛に落ちることに気がついた人は幸い。こうしてガチガチのニッポンキリスト教の体系ができ、ついには要塞化し、人々をその中に幽閉し、束縛する。残念ながら霊的真理を語るには、日本語はもっとも使えないツールと言えるのだ。

そこで、こちらのサイトを紹介しましょう。いかにニッポンキリスト教での「正統な教え」が偽りに満ちているか、言語的に鋭く指摘されています。たとえば、いわゆる「黄金律」がありますね、「自分がしてもらいたいことを他人にもせよ」と。これは真っ赤な嘘。ぜひご自分でお読みください。脱ニッポンキリスト教する根拠と意味が得られるはずです。

聖書研究総合サイト(→http://bible.ne.jp/

Comment

ISAIAH BEN HUR

これは面白いご指摘ですね。黄金律こそ、キリスト教の本質であるかのように思ってきましたが。。。どうもすでに刷り込まれている体系を、一度根底から洗い直す必要があることを感じます。

  • 2009/04/10 12:11
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