主日に集まることの意味
- 2009/04/11 23:06
- Category: 信仰
それはキリスト教と言う宗教の義務を果たすことでもなく、自分が恵まれ祝福されたと喜ぶためでもなく、自分の熱心さをアピールするためでもなく、礼拝に出て自分の良心の安心を得るためでもなく、それはただ自分自身を捧げ物とし、神の炎で焼いていただき、神の満足を求めるゆえに。自分のための礼拝(=宗教行事)から、自分を焼いてしまう礼拝(=生きた供え物)へと転機し得たら幸いである。
Not I, but Christ!
* Dr.Luke的日々のココロ *
それはキリスト教と言う宗教の義務を果たすことでもなく、自分が恵まれ祝福されたと喜ぶためでもなく、自分の熱心さをアピールするためでもなく、礼拝に出て自分の良心の安心を得るためでもなく、それはただ自分自身を捧げ物とし、神の炎で焼いていただき、神の満足を求めるゆえに。自分のための礼拝(=宗教行事)から、自分を焼いてしまう礼拝(=生きた供え物)へと転機し得たら幸いである。
Not I, but Christ!
お久しぶりです♪ルークさん、
アーメンです。十字架を通されること以外、いのちに至ることはないですね
私のブログにも転載させて頂きました。事後報告ですみません。
もみじ饅頭さん、まさにそのとおりです。人は目に見える金の子牛に頼るのですね。
さっちゃん、ご自由にどうぞ。ブログはいつも拝見しています。あの目玉くりくりの魚、可愛かったですよ^^
恥ずかしい話ですが、14年前まだ陪餐会員だった時、毎週かかさずに聖研祈祷会、主日礼拝に出ていました。ただ、熱心さをアピールし、恵みと祝福を得るために・・・。
その頃はキリストのキの字もなく、第一に教会、牧師を求め、キリストをどこかに置き去りしていた自分でした。
教会という箱がおかしいことに気づいた今は、未陪餐会員という扱いです(^◇^;)
もみじ饅頭
全く同意です。主日に集まることが、”キリスト教と言う宗教の義務を果たすこと、自分が恵まれ祝福されたと喜ぶため、自分の熱心さをアピールするため、礼拝に出て自分の良心の安心を得るため”-これらの理由として勘違いしてしまうのはなぜでしょうかね。”礼拝に参加しなさい”というような説教のせいでしょうか? そのせいで気がついたらキリストを頼りにせず、教会や牧師をまるで主のようにして頼ってしまうのでは。