パウロと親鸞
- 2007/12/02 10:08
- Category: 信仰
ここのリンクにもあるDr.Skyさんが面白い記事をものしておられる。「パウロのローマ書と親鸞の歎異抄は同じことを言っている」と。これについては前に私も書いているので、再掲載しておきましょう:
仕事と遊び-歎異抄から-
これらは区別がない方がよい。橋田先生的には「仕事をしている時も、遊んでいる時も、同じ心持であるべし」となるかな。区別する心が苦痛を生むわけ。生と死を区別すれば、死は恐ろしい。人間の苦悩は善と悪を知ってしまったこと。この二元論的世界に生きること、これが苦悩のルーツである。歎異抄の親鸞の言葉に次のようにある:
みづからのはからひをさしはさみて、善悪のふたつにつきて、往生のたすけ、さはり、二様におもふは、誓願の不思議をばたのまずして、わがこころに往生の業をはげみて、まうすところの念仏をも自行になすなり。
要するに善悪の二元論に生きることは、法則の不思議に頼らず、自分の心のやりくりに頼むことであり、自力の業である、と言うわけ。まさにクルシチャンの精神状態だ。かくして親鸞の結論は
弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて、念仏まうさんとおもひたつこころのをこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり。
弥陀の誓願不思議に助けられて生きることが極楽浄土への道であると。聖書的にはいのちの御霊の法則に助けられまいらせるわけ。これが神の国に生きるコツ。道元もこう言っている:
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。
そしてわれらの主はこう言われる:
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の魂の命(原語)を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために魂の命(原語)を失う者は、それを救うのである。
鍵は自己を忘れ、自己から離れること。心身脱落・脱落心身。
合掌(あ、ついに使ってしまった・・・)
最近よく言われているように、親鸞も福音を聞いていたとか言う説には必ずしも同意しないが(何故なら仏教、特に禅のルーツはイエスよりはるか以前なのだから)、ニンゲンなる実存を問い詰めたとき、同じ洞察にたどり着く事はしごく当然のこと。この点で、人間性に関わる理解・洞察において浅薄な西洋キリスト教神学などはほとんど評価していない。これらは人を狂わせる。だからニーチェもあれほどにキリスト教に反抗した。そもそも私が聖書を評価したのも、まずはローマ書(特に7,8章)だった。「あれ、これは禅だよ!?」と。だから私の著書にも道元の『正法眼蔵』の「現成公案」の言葉を引いてあるくらいなのだ。中国においてウォッチマン・ニーを主が立てたのも、なるほど深い摂理である。
一言で言えば、見性(=悟り)とは「法」を見出し、それに任せることなのだ。
zion
ガクト謙信さまの出陣の台詞、
「運は天にあり、鎧は胸にあり、手柄は足にあり
何時も敵をわが掌中に入れて合戦すべし
死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり
運は一定にあらず、時の次第と思うは間違いなり
武士なれば、われ進むべき道はこれ他なしと、
自らに運を定めるべし」
聖書的な痺れる台詞でした・・