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神の究極の奥義「人が神になる」

と叫ぶのは、かのウィットネス・リーだけではなかったようです。ヴォオロンさんがロシア語での告発ビデオの内容を翻訳して紹介して下さっています(→ビデオ)。

偽キリストたちを告発するビデオからの翻訳テキスト

比べてみてください:

リー語録:神の究極の奥義「人が神になる」

ビデオでは「私はあってある者(I AM)だ!」、「あなたは神だ!」、「私は神・人だ!」と・・・、アメリカの聖霊派の重鎮たちが一種独特の表情で叫んでいます。ローカルチャーチでは、「父・子・聖霊、そして教会は四一だ」と言うのですが(神格を持たない神である教会がどうして三神格と等値されるのか、自己撞着なのですが)、彼らも同じようなことを口走っているのには驚き。

最近フラー神学校がローカルチャーチの教えを正統教義だと認知した、と彼らは盛んに喧伝しておりますので、そのうちニッポンキリスト教でもローカルチャーチの教えこそが神の究極の啓示の回復とされ、全国の津々浦々で、「私は神だ!」と叫ぶクリスチャンたちによる"リバイバル"が生じるやも知れませんね。

Comment

細木

>全国の津々浦々で、「私は神だ!」と叫ぶクリスチャンたちによる"リバイバル"が生じるやも知れませんね。


ええ~!
皮肉とは言え、これは勘弁願いたいですね~。
それとも現実になってしまうんでしょうか・・・。

フラーの怪しいというか、半端というか、そういう面がいやになって、もうちょっと保守的な福音派の神学校に移る教授とかもいるみたいです。

  • 2009/07/09 09:22
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半夜

福音派の神学校で使われる講解書を使っていたことがあります。その中で、小キリストという表現がありまして。へんだなあと思いながらも、福音派なんだからまあ大丈夫だろうと思って読み進めていた記憶があります。いまその本は手元においてないのでどうだったのか詳しいことはわかりませんが、、。しょせんは講解書だろということで。聖書をいかようにでも解釈できてしまう人の心のなんとやら…でしょうか、、。

zion

人は神にはなれるがキリストにはなれないという学説もあるようです。まあ調べる気も起こりませんが、、

  • 2009/07/09 23:34
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Luke

「種の壁を越えられない」と言うのが創造の本質。「漸進的に種の壁を超えられる」のが進化論。人が神化されるのは果たしてどちらでしょうか?

  • 2009/07/10 07:20
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山谷

他者性が永遠に解消しないのが「三位一体論」だと小生は思っております。父は父、子は子、聖霊は聖霊、私は私、あなたはあなた。他者性が解消しちゃいますと、サベリウス主義、さらに進めば、東洋の汎神論になってしまいます。

「生きているのはもう私ではない。キリストが私のうちに生きている」というパウロの言明も、私が消滅してキリストが出て来る、とか、私とキリストが融合する、とかいうのでなく、私とキリストの区別は残されているのです。

それなのに、どうして一足飛びに「私はキリストだ!」「私は神だ!」となってしまうのだろう。。。

彼らはむしろ、こう言うべきだったのです。「私はキリストのからだの一肢体です」

その後、続けて、こう言うべきだったのです。「わたしは耳であって、目でもなく、鼻でもありません。だから、目であり鼻である兄弟姉妹。わたしにはあなたがたが絶対に必要です」

さて、LCの兄弟たちは、LC「だけ」がキリストのからだだと考えたことによって、分派となってしまいました。

もし、LCの兄弟たちが謙遜に次のように言うのなら、私としては特に言うこともないのですが。。。

「わたしはLCであり、カトリックでもなくバプテストでもその他もろもろでもありません。だから、LCの立場にはないもろもろの教会の兄弟姉妹。わたしにはあなたがたが絶対に必要です」

どうか、キリストのからだの建造という神の宇宙的みわざに関して、彼らの目を覆っている覆いが全く取り除かれますように!

Luke

まさに。結局彼らのセルフの表現・主張に過ぎないのですが、セルフは絶望的な盲目を生みます。

  • 2009/07/13 14:37
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