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信仰と群れ

と題する記事をSalt氏が書いておられます。まことにその通り。

私はこの夏で信仰をもって29年目になる。洗礼を受けて6年目に小学校を卒業するように救われた教会を去った。

その時点で「信仰と群れ」の問題について、自分が考え得ることはすべて考え尽くしたと言っても過言ではない。それほど苦悩した。
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空白期間を経て、神様の強引な導きによって、なぜかしら再び教会の中でメッセージを語る役割が与えられた。集まりの有り様や、教理の云々ではなく、「自らのうちなる希望を語れ」という主の命に従ったのだ。それ以外の呼びかけに応じる私ではなかったと思う。

しかし、みことばの真理を明らかにすると、人間的なものはその化けの皮をはがれ、最初は私を都合良く使っていた宣教師たちも、少しずつ私が邪魔になってきたのだ。彼らは私のメッセージの方が優れているのは日本語のせいだと考えていたようだが、もっと根本的な信仰の質の違い、霊的な問題であるとようやく気づいたのである。挙げ句の果てに、「Saltに教会をのっとられる」とデマを流して私を追放した。まるでサムエル記のサウルそのままだった。

私は争うことをやめて、ただ導かれるままに身を委ねた。ひとことも言い訳はしなかった。ただ、私は自分が来週礼拝する場所だけを明らかにした。市の文化センターの小さな部屋や公民館などを半年以上転々とした。集まりたい人はそこに集まってきた。しばらくは、名前さえなかった。これが現在のカナン教会の始まりである。

しかし、「より聖書的な」「より霊的な」集まりを求めたとしても、そんなところには初めから何もない。もう一度言おう。「そこ」には何もない。礼拝すべき場所は、エルサレムでも、あの山でもない。

「主の前における個人のあり方」だけが重要で、それがすべてである。その絆があれば、地上での有り様はおのずと決まってくる。「父を礼拝する者は霊とまことをもって礼拝せよ」とイエスは言われた。

それ以外の理由で、群れに留まるのも、群れから出るのも、自分や他人への虚しい言い訳にすぎない。
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自分の信仰を「他人のせい」や「他人まかせ」にするのはやめたほうがいい。

Comment

武州乃鳩

「群れ」にいる私には、とても響くメッセージです。
気がつかないところに、「他人のせい」や「他人任せ」があるのではないだろうかと、考えさせられます。

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