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信仰と群れ

と題するSalt氏の小論、秀逸ですので、再度全文引用させていただきます:

「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありませんか」(ヘブル10:25)

信仰は「個人的」なものであり、「群れ」には常に弊害がある。しかし、聖書は明らかに教えている。「集まることをやめたりしないように」と。

この言い回しは微妙だ。単純に「集まりましょう」でない。「集まることをやめないように」である。この違いはどこにあるのだろう。それは、集まることの「不純さ」を知っている人たちに、今一度、集まりの「純度」を求めるようにという勧めである。「集まり」に絶望した人々に、再び「集まり」に希望を持つようにと勧めているのである。

「かの日」を意識したときに、「交わり」は本質を取り戻す。しかし、「かの日」を前にした状況は、果たして地上に信仰が見られるかという状況でもある。まさに「励まし合うこと」を必要とする困難な背景があるということだ。「集まること」は益よりもしろ害の方が大きいのではないかと思われるような「集まり」が大小散在することを示唆しているようにも読める。

このみことばの前後の文脈を見ながら、ヘブル10章のポイントを整理してみよう。
①律法は後に来るものの「影」であって、「実体」はないこと 
②「実体」であるイエスが現れたために「影」である律法は廃止されたこと
③キリストがご自身のからだを永遠のいけにえとしてささげられたことにより、私たちはすでに聖なるものとされていること
④まことの大祭司イエスの血によってのみ、邪悪な良心をきよめられ、大胆にまことの聖所に入れること
⑤約束された方は真実な方だから、動揺しないで希望を告白すべきこと
⑥集まることをやめたりしないで励まし合うこと
⑦みこころを行って約束のものを手に入れるためには忍耐がいること

このような流れの中で「集まることをやめないこと」が奨励されているのは、どのような意味を持っているのかを考えてみるべきである。

●Dr.Luke付言:そしてそれは"システム"ではないのだ。"システム"についてヴィオロンさんが村上春樹氏のメッセージを牽いて、論じておられるのでご一読を。

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ファイル 948-1.jpg木々の葉が朝日にキラキラする中、ついにセミがジージーと鳴き出しました。ふと見るとまだ紫陽花も咲いている。この何とも言えないバランスから二句。

 ・蝉時雨 紫陽花の彩(イロ) 梅雨明けて
 ・匂い立つ 夏の日差しに 深緑

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