人生で何を追及するンだろう
- 2009/07/25 09:35
- Category: 信仰
雨上がりの朝はまた気持ちイイ。基本的に私の人生は気持ちのイイことを追求しているだけ。
で、あのアーサー・ホーランドさまのブログを見ましたら、アーサーが泣き言を言っておりました。彼とはニッポンキリスト教に対しても同じ感覚、ジーザスは好きだがキリスト教という宗教は嫌い。ボディビルに入れ込み、マッチョ。・・・と似ている部分もあって、何気に気になっているのです。
しかしこの方ももう60に手が届くのでしょうか。ずっと前にも書きましたが、そろそろこうした「演出した自分」はつらくなってくるのではないでしょうか、と余計なお世話を。いわゆる老年性の欝が心配される年代ですからね。精神疾患は顔を見るとだいたい分かるのです。実はアーサーのお顔も元々欝系なのです。
↑ここで彼のMOVIEを見れますが、彼はこう言ってます:
もう神とか云々じゃないんだよ。自然界に対してひざまづく心。美の存在に対してひざまづく心。・・・熱心なのはいんだけど、気持ち悪いんだよな、宗教やってる奴らって。(マッチョボディのスミを見せて)一歩間違えばペテン師ですからね。詐欺師、ペテン師。・・・(ハーレーで疾走しながら)ばっかやろー、この風が神の愛の風なんだ。この自然界が聖書の言葉なんだ、みたいな。・・・俺は人からさんざん裏切られてきた。・・・桜が散る中で詩なんかを書くのがニッポン人だ。親鸞や法然なんかも求道者だと思うんですよね。ボクも求道者なんです。・・・死ぬまで俺らは完成してく。・・・美の中を歩ませてください。赤と紫の夕日を見させてください。
自分をして「まかり間違うと詐欺師」と言うあたり、彼の地が、つまり彼は実はシャイなのです、出ていますね。全体的になんだかDr.Lukeが言いそうな台詞ですが、しかしそれでもどこかが微妙に違っている。そう彼はイエスの十字架は知っているのかも知れないが、自分が負うべき十字架を知らない感じがするのだ。ゆえにニューエイジすれすれに入り込んでいる印象だ。まあ、ニッポンキリスト教自体がその傾向にあるのだが(→ニューエイジの問題点について)。
みなさん、私たちは自然に対してひざまづくのでもなく、人生は己自身の完成を追及するのでもありません。自然界には神性が現れていますが、ひざまづく対象はただ神ご自身のみです。そして絶望寸前をかろじて歩くのでもないのです。クリスチャンの人生とは自己に徹底的に絶望し、その究極である己の死が実体化するとき、実はキリストがうちに生きて下さることを知り、キリストがうちに形作られるのです(メタモルフォーシス)。真に絶望したら楽になれます。これが私たちの人生です。もちろん神の神殿であるこのボディにスミなどを入れる必要は毛頭ありません。
私の専門的観点からも、アーサーみたいなキャラがどのような人生をまっとうするのか、実に興味があるところです。基本的には私は彼の言動には?ですが、彼自身は好きなタイプなのですね。と言ってもマッチョ的アブナイ感情を抱いているわけではないから、念のため^^。まあ彼の中に自分のある部分を見るからかも知れませんね。健やかであって欲しいと思います。
追記:その後のアーサーの声です。「昨日」と「違う」の漢字が間違っているのは愛嬌として、ややダイジョウブかな、と。
一生懸命
作日明日は今日とは偉う
作日を肥やしにして今日を一生懸命生きればいい
明日は必ずどうにかなる。
Dr.Luke的には
一生脱力
昨日と明日は今日の連続
昨日蒔いたものが今日収穫できる
御言葉を肥やしにして十字架に生きればいい
明日は益々力が抜けて楽しみが増す。
豆鉄砲
ルーク殿、確かにアーサー氏と似ているように感じております。おふたりとも小生の魅かれる男性質をお持ちですからw
決定的に違うのは、ご指摘のとおり「自分が負うべき十字架」の有無です。
「イエスは俺のために死んでくれた、だから俺は生きる!」という理解ですので、いうなればセルフ教。
御言葉に従う、という姿勢がありません...。
渡世の都合上、偽名にて失礼。