心理的慣性-信仰VS.大脳辺縁系-
- 2009/07/30 08:11
- Category: 日記
夏休みに入っても、朝、目を覚ます時、つい「さーて、今日も仕事か・・・」と考える癖がまだ続いています。で、「あ、もう休みだった」とホッとするわけ。これは心理的な慣性であり、大脳辺縁系がなせる業です。そして朝の日差しの中、ラジオ体操とジョッギング4キロほどでたっぷり汗を流し、熱いシャワーとストレッチ。朝食はプロテインパウダーをミルクに溶かし、VCとクエン酸を加えてシェークしたDr.Lukeスペシャル+ビタミンコンプレックス。これでシャキっと朝の豊かな時間を楽しむわけです。
かつてリンカーンが奴隷解放宣言をした瞬間、アメリカの奴隷はすべて消滅しました(完了形)。法的に、客観的には。しかしそれまで奴隷であった人々は、その事実を知らないため、あるいは知ったとしても信じないため、依然として過酷な主人を恐れ、自分は単なる奴隷と思い込んでいるのです。その思い込みに従って彼らは行動し、その結果を自らに招きます。自分たちの新しいアイデンティティ(=自由人)や、新しく所有した権利を主張することもできません。心がそれまでの経験によって萎えているからです。過酷な主人もできるだけ彼らを騙して、そのまま自分の手元に置こうとするでしょう。ここに彼らの客観的立場と主観的経験のズレが生じるわけです。
私たちがメッセージで語ることは、子があなたがたを自由にするのであれば、あなたがたはまことに自由な者となる、と主イエスが言われた、と告げるだけです。後は聞く側の問題。
信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。
よく言われますが、馬を水辺までは連れて来れるが、実際に水を飲ますことはできないと。それは馬自身の決断に任されるのです。クルシチャン化の原因は-
・思い(mind)に種々のフィルターがかかっており、そのままに言葉を聴くことができない(認知の歪み)。
・聞いたことをそのままに信じていない。
のです。すでに私たちは客観的事実として、過酷な奴隷状態から解放されて、神の夏休みに入っているのです!では、その夏休みをあなたはどう過ごしますか?-これがクリスチャン生活のすべてです。そして富んでいる者はますます、なのです。
神の約束は、ことごとくこの方において「然り」となったからです。それで、わたしたちは神をたたえるため、この方を通して「アーメン(そのとおり)」と唱えます。
信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです。なぜなら、神の安息にあずかった者は、神が御業を終えて休まれたように、自分の業を終えて休んだからです。
十字架はこの旧い私と新しい私の交換の場であり、そこで旧い価値観・生き方のパタンが新しい価値観・生き方のパタンへと置き換わるのです(再条件付け)。まことの十字架って、素晴らしいと思いませんか?
鳩
幼くして創造者を知るのは「恵み」ですが...。
いわゆる「日曜学校」では、宗教のフィルターを掛けられて教えられるので、歪んだ見方が自然になってしまいます。
イエスの時代のユダヤ人みたいなモノですかね。