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あなたの信仰生活のタイプは?

私たちの神は、「アブラハム・イサク・ヤコブの神」と言われ、アブラハムは信仰の父として神に召され行き先も知らずに旅に出たものの、自分の力でイシマエルを得て将来に禍根を残し、イサクは自らの努力ではなくただ子として父の資産を受け継ぎ、狡猾なヤコブは聖霊なる神の御手により、摂理によって練り上げられました。要するにこの3人に父・子・聖霊の三位一体の神を見ると同時に、私たちの信仰の歩みと経験の各側面を見るのです。詳細はこちらを(→聖書の人物の紹介)。

さて、私たちはこの3要素のスペクトルにおいて今ここにあるを得ていますが、どのタイプで生きることを願うでしょうか?20年間も自分よりもさらに狡猾なラバンの下で搾取され、神の重い御手の下に置かれたヤコブでしょうか?彼は最後に杖によりかかって神を礼拝しました。神の御手が彼をコツコツと砕き、ここまで変えたのでした。しかし自分がヤコブであることは重々承知ですが、ヤコブのような取り扱いを受ける必要もないのです。弱い人は幸いです。頑固な人はご苦労様です。Dr.Luke的にはやはりイサク型でありたいですね。神がキリストにあって成就された事をただ受け継ぐ、まあ、おぼっちゃまタイプです。すくすくと健やかに、神の豊かな備えを楽しむことができるでしょう。

かくして個性によって各自の十字架の重さも意味もかなり変わってくるのです。ウォッチマン・ニーにはまる人々の陥る罠がここにあります(注)。ニーの負った十字架をクリスチャンの標準として、その物差しで自分を計ってしまうのです。ニーに束縛されてしまうわけです。それはニーの十字架であり、私の十字架ではありません。主は言われました:あなたの十字架を負ってわたしに従え、と。十字架の原則は自己(セルフ)ではなく、キリスト-つまり交換であることはすでに述べました。セルフが強ければ強いほど、またセルフに執着すればするほど、十字架は重く過酷になるでしょう。しかしさっとセルフを手放せる人、さらさらとセルフから離れることのできるイサク型の人には十字架は軽いのです。

注:彼は強迫性向が非常に強いパーソナリティです。完全癖、拘り、粘着性、要するに「ねばならない」傾向がきわめて強いのです。ニッポンキリスト教にはこれが崩れたタイプが多いですが。

あなたはどのタイプでしょうか?もちろん多かれ少なかれ、それぞれのタイプが混成しているわけですが、はたして、アブラハム型、イサク型、ヤコブ型?

追記:ニー自身も、頑なレンガのようではなく、神の手が触れるとただちにボロっと崩れるビスケットのようであれ、と言っています。脆い人は幸いなのです。しかし神は時にニーのように特別なものを委ね、ご自身の証しのために、あえてあのような十字架を負わせることがあります。それは神の証しと栄光のためです。しばしば私たちが経験する理不尽や不条理において、私たちが何もなし得ないとき、無力感の中で私たちは誰かの罪の結果だろうかとか、自分の問題ゆえだろうか、とか詮索します。しかし、主の言葉を思い起こしましょう:

本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

鍵は自分ではなく、キリスト。自分の詮索に落ちることも罠です。神の心はこの方にあるのです。

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