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ア・プリオリな存在を見出す喜び

この2年ほど、漢詩にハマってけっこう楽しんでいるが、漢詩は唐代に洗練された形式が完成されている。中国語の発音には四声があり、絶句や律詩の形式の中に、平声とその他(仄声)をあるルールに従ってハメ込み、さらに韻の踏み方も形式があるので、それに従えば一応形式的に整った漢詩が完成する。ある種ジグソーパズル的であるが、それでもなお、自分の内的感動を文字で表現できた時には、改めてかなり感動する。

同時に音楽の学びも続けているが、こちらはリクツが先行しており、なかなか作品にまで行き着かない。それでもPCの作曲ソフトの力を借りて、先日のような曲もできるのだが、今回、実に面白いサイトを発見した。鼻歌を入れてやると、コードの割付からアレンジまで自動で行ってくれる。これはスゴイ そのサイトはこちら:

実際の使用法はTrailerがあるのでこちらを参照されたい:


UJAM Trailer December 2010Jquery Video Gallery by VideoLightBox.com v2.8


まさに音楽は数学。コードの順列と組み合わせを時間の中でメロディーとして展開するわけ(あるいはその逆かも)。そのバリエーションの中から、大脳に快感を与えるものを選択するのだが、なぜ大脳が快感を覚えるメロディーやコード進行があり得るのか。これは数学の定理と同じで、神がア・プリオリに大脳の中に埋め込んだとしか言えないのだ。例えば、何度も紹介しているこの数式:

e, i, π, 1と言う自然界の基本定数が見事に統合されている毎回見る度に「うーん」と呻くのだが、実に美しい・・・。岡潔は「数学は情緒である」と喝破したが、何故その情緒を生むのか、これは多分音楽によって生み出される感動とも共通すると思う。フィールズ賞を得た小平邦彦は、「数学は、仏師が木材の中に先験的にいます仏を掘り出すのと同様に、自分で作り出すと言うよりは、掘り出す(あるいは見出す)ものだ」との趣旨のことを言っている。そう、それはすでに大脳の中にあるのだ。天才をそれを掘り起こして形を与えることが出来る。われわれはその過程を追体験するわけだが、それでもある種の感動を享受することができる。

これは聖書の霊的真理を見出す時も同様。けっして「○○神学」などと称して、自分の小賢しいオツムででっち上げるものではない。すでにある霊的事実(真理)を見出すこと。このためにはもちろん聖霊の照明が必要なのだが、しばしば神は知者に対してではなく、あえて無学な者たちにそれを与えてくださる。

み言葉が開けると光を放って、無学な者に知恵を与えます。-Ps 119:130

そのときイエスは声をあげて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました」-Matt 11:25

・・・と、また愚かなオツムのよろしいキリスト教の教師や神学者に対する苦言となるので、このくらいにしておくが、いや、これはなんだか久々にワクワクする体験だ。素人でもハイクオリティな作品ができてしまうわけで、逆に言えばプロにとっては大変な時代とも言える。しばし、楽しませてもらう予定。

■参考:

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