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神に手で触れる感覚

12月のあのこと以来、すでに1か月近くになるが、ますます神が近くなっている。内なるキリストに触れるとか、内側が甘く満たされるとか、平安が満ちるとか、喜びが湧き上がるとか、これらの内的経験はしていた。ワーシップで主に迫られる感覚や、その御手で包まれる感覚も味わっていた。が、この手で触れる感覚は知らなかった。ちょうどプールの中で手を広げると水を感じるように、この物理的空間の中に手を広げると、先に書いたとおり、天の空気(霊)に触れるのだ。緑の自然の中に入ると神の創造に触れ、神の臨在を覚えることはよくあった。が、今、東京の高層ビル群を見るときも、神の霊が包んでいるのが分かる。創世記1章に

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。-Gen 1:1-2

私はこの1節と2節の間にギャップがあると考えているが、それはまたの機会にして、2節では形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあったが、神の霊が水のおもてをおおっていたとある。あたかも孵化するのを待つめんどりが卵を守り覆っているかのように、神の霊は水のおもてを守り覆いつつ、神の信仰が熟し、神のレーマが発せられる時を待っていたかのようだ。この覆って下さる霊が手に触れ、文字通り感じられるのだ。It's tangible!「神に手で触れる」とか言うと、これはちょっと逝っているかもと思われるだろうが、事実なのだ。なんなのだ、これは・・・・。と、新約聖書を見ると、エペソ書にこうあった:

〔人〕知を超えたキリストの愛を知って、神の全き充満へとみたされるために〔である〕。-Eph 3:19(岩波訳)

口語訳などでは「神にみちているすべてのものをもって」、KJVは"be filled with all the fulness of God"となっているが、原語は"eis"、Strongによると

A primary preposition; to or into (indicating the point reached or entered), of place, time, or (figuratively) purpose (result, etc.)

要するに岩波訳のように「の中へと(into)」が適切。神の全き充満へと満たされる、すなわち神の全き充満の中に入り込むことなのだ*1。プールに入っているときは、プールの水の全き充満へと満たされている。だから、その充満に手で触れることができるわけ。神は遠く離れているお方ではない。今、ここにいます方、I AMなるお方。私たちを守り包んで下さるお方。「信仰は"I AM"の実体化だ」と10年以上前に著書に書いたが、自己預言的にその成就を味わっている。まことに

The Lord is at hand.-Php 4:5

*1:神の全き充満に入るって思想、これかなりやばくないでしょうか?私が逝っている以前に、パウロはもっと逝っていることを書いているのだ!要するに聖書はやばい。繰り返すが、創価学会や幸福の科学の方がまともなのだ。

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