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パウロの経験

彼は14年前に第三の天に上げられ、人が聴くことのできない言葉を聞いたと証ししている(2Cor 12:2-4)。そこで何を見たか、何を聞いたかは一切語っていない。彼は何を見て、何を聞いたのか。彼の経験したことは彼にのみユニークなものだったのか、それとも誰にでも起き得ることなのか。私は前者の立場であった。が、今、パウロがその見聞きした内容自体を語らないことが理解できる。それは決してオープンにすべきことではないからだ。地上のことでコンフォームされたマインドにとってはやばい。やばすぎる。それは神の領域に入り込む経験。ミステリーを垣間見ることだから。神が秘していることを人間が暴くことは許されない。神が開かれる時、開かれることだけを分として受け取るべきなのだ。クリスチャンと言う存在の本質もそこに隠されている(Col 3:3)。

Comment

sesame

このブログでよく内側が甘くされる経験という経験について語られているのを拝見しますが、ある意味その甘さというのも世のもつ意識の質感と隔絶しすぎていて戸惑いを覚えることがあるのでは、という気がします。神の愛の純粋さははっきり言ってやばいレベルです。理屈や言葉では説明がつかないのです。なので、いわゆるクリスチャンたちが伝道!伝道!と叫んでるのを聞くと、ほんとにわかってるのかな?と白けてしまうのが正直な気持ちです。神を知るというのは、まことにやばい経験なんだと思います。

  • 2015/02/07 11:35
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Luke

そうですね。神の甘さとか言ってもこの世のクオリアとは違いますからね。伝道強迫障害はニッポンキリスト教の深い病理でしょう。神の領域にタッチすることは、言葉を超えることですから。

  • 2015/02/07 11:51
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