魂の救いと健やかさ
- 2015/02/08 16:36
- Category: 信仰
- Tag: トランスフォーメーション 十字架 死と復活の原則
イエスは日々十字架を負い、自分を捨て、魂のいのちを否めと言われた(Luke 9:23-24)。何度もここで書いているが、それは魂の機能である、知性・感情・意志の活動を停止し、私の意識が消失することではない*1。それはナンセンス。しかし、こう勝手に解釈して、自分が死なない、死のうとするとますます生きてしまうと葛藤し、自作自演的にクルシチャン化する者がいる。霊から独立して機能する魂を否めと言うことであり、私たちの魂はキリストに依存するとき、ますます栄えるのだ。
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信仰によるものです。-Gal 2:20
パウロは明確に、生きているのは私ではないとしつつ、肉において私が生きていると証ししている。キリストの信仰に頼るとき、私は生きるのだ。この二つの「私」の間には十字架の死と復活がある。だからヨハネはこう祈っている:
愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え、健康であるようにと祈っています。-3John 1:2
邦訳では「恵まれて」となっているが、ヘブル語は"euodoō(栄える)"だ。人類はいのちの木の実を取り損なった。その実体はキリストご自身。その方の信仰によって生きるとき、
待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。・・・願望がかなえられれば魂は快い。愚か者は悪を避けることをいとう。-Prov 13:12;19
かなえられた願いはいのちの木、すなわち信仰の実の一要素である喜びを生む。イエスご自身がこう約束されている:
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-John 15:7-11
ハレルヤ!キリストの信仰によって生きる魂はますます栄え、神の国を表現するのだ。その霊に満たされた魂が語り出す言葉は、霊であり、いのちである(John 6:63)。ゆえにパウロはこう勧めている:
そして思いの霊において新しくされなさい-Eph 4:23*2
はっ?思い(mind)は魂の機能では?確かにそうだが、ここの思いには霊が浸透しているのだ。これがトランスフォームされた思い(Rom 12:2)。私たちの魂、特に思いはもはや霊から独立して勝手に彷徨うことはない*3。それは霊と御言葉にしっかりと根付いている:
だから、あらゆる汚れやすべての悪から離れ去り、移植された御言葉(logos)を素直に受け入れなさい。それは、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21
魂が栄え、すべてにおいて健全であること。これはまず思いのトランスフォーメーションから始まる。思いが霊と真理に基づいているならば、感情は安定し、健やかかつ豊かであり*4、意志もそれによって言動を決める。こうして私たちは神の国のポータル(門)として、地上に神の国を現出させるのだ。ゆえにハデスの門もエクレシアに打ち勝つことはできない(Matt 16:18)。ますます大胆にイエスの名によって求め、願いをかなえていただこうではないか
- ちょっとディープなトピック(関連するところを参照してください)
*1:こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。
*2:邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。
*3:思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。
*4:イエスが笑ったかとか議論する人々がいる。イエスは実に感情豊かだった。人前でもよく泣いた。しかめっ面と信仰は反比例するのだ。あと、目が笑っていない牧師の笑顔とも・・・
まこ
れいが浸透した思い(魂)、真理と霊に基ついた思い、この表現は凄く理解しやすいです。
霊に覆われ、霊に包まれた魂の働きは、休息の中に置かれ、活動しつつも安息があります。