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本日の一冊

ファイル 256-1.jpg鈴木宗男氏と一緒に逮捕された佐藤優氏の『国家論-日本社会をどう強化するか』(NHKブックス)。同志社大学神学修士を持つ氏の論考だけあって、聖書から説き起こしている。それも「三位一体論」や「カルケドン信条」から・・・。要旨は上のリンクによくまとめられているが、氏の神学に対する姿勢は、前にも指摘したが、相対化されたものであって、飲み込まれ現象がなく、好感と信頼感を持てる。

いわく

・・・イエスが存在してこのように言ったという前提での神学は、もはや学問的神学ではないのです。ただし、こういうことは確定できる―一世紀の終わりから二世紀の初めの時点において「一世紀にいたイエスと言う人間がわれわれたの救い主である」と信じていた人たちがいた。ここまでです。・・・
 つまりキリスト教神学と言うのは、教祖であるところのイエスがいたかいないかよく分からないという、根本的に曖昧な部分を抱えた神学体系です。そのため、本質的に歴史実証主義が嫌いです。どうしてかというと、歴史実証主義を徹底的に詰めていくと、メシが食えなくなるから。ですから、どこかで必ずごまかすわけです。
 大学の神学部で、牧師や神父の卵である神学生たちは、もちろん、ここで述べたようなことは全部教え込まれるわけです。しかし、実際に牧師や神父になると、経営者の論理が要求されます。うかつなことを言ったら「お客(信徒)」がみんな逃げてしまう。だから、イエスさまは確実にいたということを大前提にするわけです。そのあたりは、神学で飯を食っている連中の、いわば企業秘密です。
 そのため、だいたい神学部に言って1年から2年も経つと、今までイエスをずっと信じてきて、そのために献身したいとさえ思ってきた者に限って、期待を裏切られたように感じ、アルコールに溺れるようになったりします。
・・・一般の学術的な論争というのは通常、積み重ね方式になっています。議論が少しづつ積み重ねられていき、新たな論争というのは以前の論争の積み重ねのうえに成り立つのです。ところが神学論争は違う。神学論争が進むと、それは必ず政治的な問題になってきます。暴力的な介入によって相手をやっつけるというかたちで終わりになるか、あるいは議論が瑣末なところに走っていくために、本来の議論はみな忘れられてしまう。あるいは論争に明け暮れ疲れ果て、みんな論争するのをやめてしまう。
 それで300年くらい経つとまた同じ話がちょっとだけかたちを変えて蒸し返されるわけです。その繰り返しで、積み重ねどころか、進歩という感覚にはまったく馴染みません。いつも迷路に入って終わりです。
 それから、神学論争では、論理的整合性が高くて、知的水準が高いほうがだいたい負けます。知的水準が低くとも、時の政治権力と結託したほうが常に勝っています。キリスト教は基本的に、負けた者のテキストは一切残さない。・・・
 今、わわれわれが手にすることができるのは、論理的整合性の度合いが低く、なおかつ知的水準はあまり高くなくとも、政治と結びついていたものしかありません。

これは私が常々指摘しているところでありまして、神学が「学」として成立し得るのか、そもそもそこから検討する余地があるわけです。まあ、神学論争などは言ってみれば「声のデカイ方」が勝つわけで、そもそもその資質が問われるのだ。かくして「2ちゃんねる」あたりがそれにふさわしい場だろう。ただし、粘着してくる連中がいるから辟易なのだ、このニッポンキリスト教なるギョウカイは・・・嘆。

(陰の声:嗚呼、またこれでオツムのよろしい神学者のセンセイたちを怒らせるかな・・・汗)

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