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分裂した隷属国家ニッポンの終焉

岸田秀氏が指摘した外的自己(欧米追従系)と内的自己(本来的日本人系)に分裂したわが国。

私的には4回の去勢を受けた国として、すでに自身の生きる術を担保するためには、米からの自立は不可能と指摘しているところだ。最近の我が国の動きはまさにこの分裂した二つの自我のせめぎ合いが明確になっている。外的自己の動きとしてはTPPによるグローバル化、内的自己の動きとしては田母神氏や富井氏のような「美しき国の日本人よ、今こそ立ち上がって世界を救え」的主張。きれいに分離している。

ちなみに私は安部氏の憲法試案にすべては賛同できないが、前文と9条の改正は是非になされるべきと考えている。国家が主権と領土と国民を有し、軍隊を持つのは当たり前のこと。時には徴兵制もあり得ると考えている。さらに言えば、今日、核武装は必須であろう。各国の善意に信頼することできるはずもないだろう。ニッポンキリスト教のオメデタイ左翼連中のオツムはほとんどキリスト教的ファンタジー。が、靖国神社が国体護持の根拠されるのは困るが。
続き
原発問題でも一方の再稼動組は何が何でも原発を動かすとし、他方は原発は根本的に廃するべしとする。政治の動きでも小泉氏以降、自民圧勝→民主圧勝→自民圧勝と振り子が右から左に揺れている。その振幅の大きさはニッポンの特徴だ。この国を見ていると、つまるところ自己存在を担保する「核」が欠如していることが分かる。自分は何のゆえに今ここにあるを得て、何のゆえに生き、また何のゆえに死することができるかと問われるならば、ニッポンは答えようがないのだ。このことはすでに99年に書いている。

かくしてかつて三島由紀夫が「日本はなくなり、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、抜目がない経済的大国が残るであろう」と予言したとおりの状況となっている。彼が腹を切る直前にものした檄文を再掲しておこう。

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三島は最後の希望を自衛隊に置いたが、それも裏切られた。自分の核を探してついに絶望に至り、自身の美学をまっとうするために腹を切った。ナルシシズムの究極とも言えるが、当時は狂気とみなされただけだ。極私的には、今この時、現在の状況で彼が「激」を飛ばしたらどうだったろうと考えるのだ。かなりの同調者を得るような予感がする。あの当時は時代が彼の主張を受け止めるほどに熟れてというか、病んでいなかったのだ。今、確かにニッポンは終わりつつある。否、本質的にはすでに終わっている。あとはその兆候が時間の流れの中で現れるだけだ。

その昔、芥川は「ぼんやりとした不安」と訴えて自死に至った。太宰も「選ばれてある栄光と不安、我にあり。生まれてきてすみません」と引き裂かれた自我をもて余して入水した。川端も何故にか、ガス管をくわえて逝った。彼らはたぶん見えるのだろう。生と死の不条理、自分と人生のナンセンスが。若き頃、私もそうだった。ある時に見えてしまったのだ。するとほんと生きるのが馬鹿らしかった。かといって文学的才能もないので、その葛藤を表現し得なかった。自死に至る勇気あるいは狂気も持ち合わせていなかった。とりあえず六本木で気取って酒を飲み、Discoで踊り、友人たちと北海道を旅し、恋愛で思い悩み・・・といったことに時間とエネルギーを費やした。膨大なるエネルギーを持て余して、ひたすら空転していたと、今は感じる。まことに小市民だったので助かったとも言える。その象徴が中村雅敏の『俺たちの旅』だ。あの世界のマンマだった。

この時期になると例の「24時間テレビ」なるもので盛り上がる。なぜか、今回は「この国の形が云々」とか訴えていたが、いつもどおり虚しいスローガンのみ。おそらくこのままでいいのかとする問題意識は持てても、何をどう考えて、どうすべきかが分からないのだ。それほどに混迷を深めている。まあ、私自身ももはや匙を投げたい思っているほどなのだ。いわゆるニッポンキリスト教が教勢を強めればすべてまーるく収まるとは思わない。むしろ、キリスト教国家ニッポンなどは恐ろしいことになるだろう。キリスト教などは人や国家を救わない。かくして極私的にも、この国のアイデンティティと命運、いよいよ分からなくなってしまったのがホンネだ。繰り返すが、この国は一度死ぬ必要があることは言えるだろう。


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