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Dr.Lukeが語っていることは

最近、ちょっとやばくない?と思われている部分が相当にあろうかと思っている次第。自分で語りつつ、これは妄想か、偽りか、それともリアルか、とつねに自問自答しつつ、かつ聖書に照合しているのだ。12月に主に仁王立ちされて迫られた結果、以前のように軽くスルーができなくなり、どうしても白黒決着をつけるべきところに追い詰められているわけ。ちょうど、ヨブが

男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。-Job 38:3;40:7

と二度までも迫られたように・・・。リアリティとはどこにあるのか?この信仰の根源的問題が問われているのだ。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉(レーマ)によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです。-Heb 11:3

モーセの失敗-マインドの慣性

先にDr.Kさんが従順とは傾聴であると指摘された。信仰は聞くことから、それは神のレーマであり、神のレーマには不可能はない。このレーマは一回性のものだ。聖書に深く精通し、霊的経験が豊富であることも時に罠になる。一回性のレーマを聞き逃す、あるいは聞けない、あるいは聞いても従わないとすべてがアウト。その例がモーセだった。神と顔と顔を合わせて会話する彼が、岩に命じよという神の言葉を聞きそびれたか、聞いても従わなかったのか*1、とにかく彼は岩を打ってしまったのだ(Num 20:7-11)。それでも水はほとばしり出たが、その不従順のゆえ、モーセは良き地には入れなかった。

ファイル 4725-1.jpg

理由は、以前の岩を打つ奇跡の経験が彼の思い(mind)にコンフォーム(形成)されていたからだ。彼は思いを新たにすることに失敗した。われわれの魂(知性・感情・意志)には慣性がある。ある一定の方向に向かうと方向転換が難しくなるのだ。そのコンフォームされたフレームからはみ出る事象などには必ず抵抗感を覚える。現代でも死人が蘇る!?そんなのは古代の夢物語だろうとか*2。あるいはイエスのなした奇跡はすべて何らかの霊的真理を教えるための喩えであるとか・・・。これがニンゲンのマインド・オヴァー・ゴッドだ。

肉の思いは神に敵対する。-Rom 8:7

自己弁護や、聖書解釈、霊的意味付けなどで主イエスの業をニンゲンのマインドに合わせることは大きな損失。聖書の言葉はそのまま受け取るに値するものだから。

聖書はすべて、神の霊感によるもの・・・-2Tim 3:16

神の霊感とは"theopneustos=thoes(神)+pneo(息吹き)"。そして神は今もレーマを語られる。レーマを聞くと、とにかく分かる。I know that I know !しかもそれはしばしば私のマインドを超え、逸脱し、あり得ないのだ。霊と魂の分離が起こる。この状態は受胎告知を受けたマリアのようにけっこう自分にとっては困惑あるいは不安を生む。なぜか、これまでのマインドのパラダイムから外れているから。かくしてイエスが行かれたところ、語られるところ、御業をなされるところには、必ず大きな困惑と混乱と意見の対立が生じるのだ。エクレシアが真に神の国の出先機関として機能し出したら、これは世をこのように引っ掻き回すだろう。が、それが終末の福音のあり方である。

*1:頑なな民に対して怒りを爆発させたためではあるが、それだけならばイエスも不信仰な弟子たちに怒っていることでは同じだ。
*2:マタイ10章(Matt 10:7-8)の命令はオリジナルな十二弟子限定であるとする人々がいる。が、マタイ28章にはこうあるのだ。

わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。-Matt 28:18-20

ニッポンが救われる道

ユダヤ人と日本人が精神病理的に似ていることはすでに指摘している。一言で言えば、プライドが高く、知的、イエスに対しては頑な。彼らの心を神に転機させるにはそれを刺し、砕き、すべての思考・高ぶり・はかりごとをキリストに服させること(2Cor 10:4-5)。お体裁の「気軽に教会へどうぞ」的スタンスではキリスト教徒は増やせても、霊の再生されたエクレシアの肢体は無理だ。まことに使徒行伝の様がそのままに再現される必要がある*1。コメントでも何度も書いたが*2、切除された乳房が再生され、骨折した腕の骨の金属が骨に変えられ、死人が起こされて、神のデュナミスが証しされるまでに。私の葛藤や、私の何とかを何とかしてくれ的スタンスを卒業する時なのだ。祈るときは「私にあって神の国が現出しますように!」と。アイ・マイ・ミー的スタンスからキングダム・スタンスへ。

人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか。」と言った。
そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」-Acts 2:37-39

*1:これは特別の器によってなされたのでははなかった。すべての信者に開かれている。問題は私たちが受け取るかどうか。それは神の国の能力だから。自分がどうのこうのではなく、単純に受け取るだけなのだ。が、これがなかなかできない。あれこれ理由をつけて・・・。ゆえに思いのトランスフォーメーションが必要なのだ。
*2:これらの証がすでになされているのだ!

ホテルのロビーで

ひとりの方がイエスを受け入れた。父なる神がものすごく近くに、天の喜びが直に感じられた。Glory be to God!

ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。-Luke 15:7

神の国の真の福音のあり方

現在のように、「あなたの街の親しみのある教会、お気軽にいつでもどうぞ」的なニッポンキリスト教のあり方は、世に媚びを売るもの。真の福音は罪と義と裁きについて世と対決するし(John 16:8)、世を根底からかき回すものなのだ。

彼らは言った。「あの人たちをどうしよう。あの人たちによって著しいしるしが行なわれたことは、エルサレムの住民全部に知れ渡っているから、われわれはそれを否定できない。・・・」-Acts 4:16

いわゆる「○○教会」と称する建物に日曜日毎に集まって、内々に自分たちが恵まれ祝福されることを求める現在のキリスト教徒のあり方は真の福音ではない。あるいは「お気軽にうちの教会に来てください」とかはベクトルの向きが逆だ。むしろ出て行くのだ。そして町の中でイエスの名によって悪霊を追い出し、車椅子の人々を立ち上がらせ、末期ガンの患者さんを癒し、さらには死人を蘇らせる。すると世は雑誌やTVなどマスコミをはじめとして大騒ぎとなる。ある者はインチキだとし、ある者はカルトだと叫び、ある者は狂っていると糾弾するだろう。そして選ばれた者たちはエクレシアとして集められる。かくして神の国は世に進攻するのだ。根拠は、すでにイエスが天と地のすべての権威を有しているからだ。かくしてイエスの名がこの日本を上へ下へと引っ掻き回す。

ねっ・・・やっぱり、やばいでしょ神の国はバイオレント(Matt 11:12)。お体裁では振い落される時代に入っている。

私たちとヨハネ

ヨハネはイエスについて、この方は来るべき方と明確に宣言し、イエスにバプテスマも施した。ところが彼は

さて、獄中でキリストのみわざについて聞いたヨハネは、その弟子たちに託して、イエスにこう言い送った。「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」
イエスは答えて、彼らに言われた。「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」-John 11:2-6

と矛盾することを行っている。実はこれが知識と経験の狭間におる私たちの真の姿なのだ。See?

聴くこと

現代において神の癒しはあるのか、しるし・不思議はなされるのか?このようなトピはけっこうクリスチャンの心を騒がすようだ。使徒行伝にはこうある:

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。
御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもべイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。-Acts 4:29-30

実は極私的には、最初の「みことばを大胆に語らせください」はよく知っていたが、次の「しるしと不思議なわざをおこなわせてください」と祈っていたとは、最近気がついた次第。あれ、彼らはこう祈っていたのだ

癒しにしても、私の右耳はまずことばが与えられた。そのとおりに癒された。腰は、最初自分勝手にやっても何も反応しなかったが、ことばを聞いてそれに従った結果、反応が出て、癒された。鍵は何か。聴くこと。何を?神の言葉、レーマだ。これはいのちの成長の度合いとか、聖書の解き明かしができるとか、それらにいっさいよらない。今、ここで、主が語る言葉を聞ける人はその結果に与るが、聴き逃せば、それはそれまで。そのためには思いが、たとえ聖書の知識にせよ、いろいろと詰め込まれていると聞損なう。特にプライドが邪魔する。思いをいったんクリアにして、霊にチューニングされること。まことに

しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。・・・」-Matt 8:8

思いのトランスフォーメーション。2015年の課題だ。

追記:ルカ1:37(Luke 1:37)は普通、「神には不可能なことは何もない」と訳されている。英訳も"With God nothing is impossble."だ。だが、ここの原文をよく見ると、

οτι ουκ αδυνατησει παρα τω θεω παν ρημα

とある。直訳すれば、「なぜなら、ない、不可能、共に(から)、神、すべて、ことば」となる。ポイントはここには訳出されていない"rhema"が含まれているのだ!つまり「神の語り出されたことばと共に(から)不可能なことは何もない」という意味なのだ。イエスが語り出されれば、ペテロも水の上を歩く!WOW!かくして目の前のあれこれに振り回されることなく、まずレーマを受けること。レーマを受けるならばあらゆる問題、病、必要は重い栄光の中で解決する、すなわち天が地になされるのだ。

日々キリストにありて

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ニール・アンダーソンによる黙想


 だれでも神の御霊に導かれる者たちは、神の子である(ローマ8:14)。

 私の人生において、事の達成よりも関係性が優先されるべきことに焦点を置くようになった重要な出来事がふたつあります。ミニストリーに召される前、私はアポロ計画の航空エンジニアとして働いていました。私は月着陸船が月面に降り立ったその日を決して忘れません。「ニール・アームストロング、月に降り立つ」というヘッドラインがミネアポリス・スター紙の一面を飾りました。私はその計画の一端を担った者として誇りを感じています。
 しかし、実際的に重大なニュースが7ヶ月後に三面記事の7ページに報道されました:「ハイジ・ジョ・アンダーソン、ニール・アンダーソン夫妻に誕生。ノースウエスタン病院、1969年3月12日」と。これはあなたにとっては大きなニュースとは響かないでしょうが、彼女の母親と私にとってはきわめて大きいニュースです。ハイジは私の書斎を専有し、冷蔵庫のひとつの棚をすべて自分のものとしたのです。彼女は私たちの睡眠のパターンを変え、社会的活動のカレンダーを制限しました。しかし、彼女は私たちにとって、かかえ、抱きしめ、そしてケアすべき私たちのための存在でした。
 神は月を目指すことをどのようにケアされるでしょうか?それは外側でなされる行為です。ある者たちがいつか登場して、さらに上手に、素早く、高度に、それを達成するでしょう。神がケアされる対象はハイジ・ジョ・アンダーソンのような小さい人々です。なぜなら彼らは神と永遠に共にいるからです。
 私の人生で次の重要な出来事は、最初の博士号を取得したことです。しかしそれは私の人生でももっとも面目を失う日になりました。天からの賞賛は何もなく、小羊の書にある私の名前に星印(※)が付けられる事ほどのものでもないと感じたのです。その日以前から私は神の子であり、その後も私は神の子であり続けるのです。
 しかし罪人が悔い改めるとき、天で何が起きるしょうか?賛美です!なぜ?それは神との関係は永遠のものであり、地上の達成は一時的なものであるからです。一時的なもののために永遠のものを犠牲にすべきでしょうか?人間的な達成のために個人的かつ霊的な関係を無視したことはないでしょうか?つねに関係性は一時の達成よりも最優先されるべきなのです。

 主よ、私のスケジュールの忙しさと所有物の散乱の中で、今日、関係性を大切にし、養うことができますように。

TODAY'S CELEBRATION 【Feb 01, 2015】

UPしました。

●タイトル:マインドのメタモルフォーゼ
●聖書箇所:ローマ12:1-2;使徒10:38;2コリント5:17;2コリント10:5など

ノー・エクスキューズ

「・・・ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、なんでもできるのです。」
するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」-Mark 9:22-24

イエスは明確に言われた:all things are possible to the one that is believing.(YLT)

これをどう受け取るのか。いろいろ、あれこれ、それぞれ、これまでコンフォームされた思い(mind)の形に従って、コメントあるいは注釈をつけるだろう。事実、講解書にはついている。あるいは軽くスルーしておく手もある。が、ここで、この父親はいっさい弁明や注釈をしていない。ただ、叫んだ、不信仰な私を助けてくれ!と。するとイエスはレーマを発し、子供は解放された。

ペテロもイエスが湖面を歩くのを見て、単純に、私も・・・と願い出ると、主はその願いに答えて、「来なさい」とレーマを発せられた。すると単なる人であるペテロも水面を歩いたのだ。

この二つの場面で共通することは、

 ①イエスに率直に求める
 ②イエスが言葉(レーマ)を発する
 ③信仰が息吹かれ、結果を生む

言い訳や自己弁護、自分の思いに合致させる操作などをするとき、信仰はストップする。なぜなら主の言葉が発せられないからだ。信じられないときは自分の何かを保つために解釈や結論を出すことなく、今の私には信じられません、あわれんでください、と申し上げることが最善なのだ。パリサイ人たちは自分の何かを保つためにイエスのアイデンティティーと業を否定した。まことに神の国は幼子のものだ。

追記:信仰は聞くことから、聞くことは神のことば(レーマ)によるとあるが、この点についてはDr.Kさんが実に重要な指摘をされている。

御顔と眼差し

ヤコブはヤボクの渡しで神と格闘した(Gen 32:25-32)。神は彼の自前の力の源である腿の番を打った。ヤコブは祝福を求めると、神はそれに応えた。ヤコブは神の顔を見たのに生きていると言って、その場をペニエルと呼んだ*1。ぺ二ーとは顔、エルは神、すなわち「神の顔」だ。同時に名前をイスラエル*2と変えられる。その経験の後、ヤコブはそれまでの彼ではなく、ビッコを引く者とされた。晩年の彼は杖に寄りかかりつつ神を礼拝した(Heb 11:21)。

旧約聖書の中で神の臨在(presence)と訳されているヘブル語は"paniym"、その意味は顔なのだ。そのまま"face"と訳されている個所も多い。ダビデは常に御顔を常に求めている。そして神の霊に包まれることと御顔を向けられることを同義としている。

どこに行けばあなたの霊から離れることができよう。どこに逃れれば、御顔を避けることができよう。-Ps 139:7

12月のあの経験で見たこと・聞いたことは幻覚なのか妄想なのか。とにかく私はその後右足がマヒして、2週間ほどビッコを引いていた。ボディにはかなりの自信があった私だが、ある意味その自信は打ち砕かれた。自分の弱さに直面し、自己のコントロールがまったく効かない状況に置かれた(→自己における死について)。が、その中で、自分が何もなし得ない状態にあって、中等度難聴の右耳の癒しと右足のマヒの癒しを続けて経験した。

さらに神が手で感じられるようになった(Php 4:5)。外界の景色を見ても、神の臨在、つまり御顔を感じるのだ。常に御顔を前においている感覚。モーセは神と顔と顔を合わせた者とされたが(Exo 34:29-34)、クリスチャンもその特権、否、それ以上の栄光に与れるのだ(2Cor 3:16-18)。もちろんイエスの血のゆえに。加えて臨在(presence)と訳されているもうひとつのヘブル語は"ayin"、原意は「目」だ。つまり臨在とは神の顔であり、神の目が置かれる状況(Deut 11:12)、栄光とはすでに述べたとおり、重さの意。それらに与ることができるのがクリスチャン、なんと幸いなこと。SO BE IT!!!

*1:このゆえに自分の最も自信のある部分を神に砕かれる経験をペニエルの経験と称する。
*2:"he will rule as God"の意。転じて神のプリンス。

結局、十字架なのだ

さて、酢を受けるとイエスは「成し遂げられた」と言った。そして、頭を傾けて、霊を引き渡した。-John 19:30

何が成し遂げられたわけ?思いのトランスフォーメーションはこの理解から始まる。十字架で成就された事実がどの範囲のものであり、私たちがどこまで与ることができるのか。すべてはこの理解にかかっている。そして復活はそのことを確証し、私たちに神の国のいのちと力をもたらすのだ。

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