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御霊による整体-キングダム・マインド

すでに右耳の中等度難聴が癒されたことは書いたが、実は私のボディにはもうひとつ問題があった。それは腰。高校時代に椎間板症をやったことがあるのだ。で、今回、正月に右足の裏とふくらはぎの痺れとして症状が出た。10分ほど歩いていると感覚が麻痺し、鉛の重しを巻き付けているような感じで、ヒラメ筋がパンパンに張ってしまうのだ。これにはちょっと参った。ジョッギングも筋トレもスイミングもアウト。MRIを撮ると次のような状態。

ファイル 4701-1.jpg

2番目の←の部分が椎間板が水分を失って、やや飛び出し、脊髄神経を圧迫しているとの所見。他の2箇所は椎間板が脊椎骨の中に入り込んでいる。Dr.いわく、かなりカゲキなトレーニングをしましたねぇ。スイミングは特に仰け反るのでまずいです・・・。うーん

さて、どうしよう、と。ここで思いのトランスフォーメーション、要するに地的医学的に思考することをやめ、神の国の思考パターンを求めて聖霊に祈ると・・・。イエスの名によって命じよ、と。ああ、これは極私的にはもっともやりたくないこと。私のサイエンティストとしてのプライドが疼く。しばし葛藤した後、右手を腰骨の上に置き、「イエスの名により命じる、骨の位置が正常になって、しびれよ消えよ!」するとこれがまた理解できないことなのだが、体が勝手にビックンと動き出し、あたかも誰かに整体を施されているかのようにボキボキとクネクネと・・・。なんなんだ、これは!これが数回起こり、結果を言うと、しびれは現在は消失。

かくしてどうもこのところこれまでの私の思考パターンや世界モデル(パラダイム)から外れた、わけの分からないことが続いている。で、いろいろな証しを渉猟していたが、どうもこの人の経験ときわめて似ているのだ。彼も3日間続き、ヤボクの渡しでのヤコブの経験だと言っているが、私もそのとおりと感じている。私も2日目には、ヤコブと同様に「祝福してください!」と叫んだのだ。彼の名はBill Johnson、その筋ではかなり有名な人のようだ。The Kingdom of Godを地上にもたらすと、何か共有できるビジョンを持っている。最近、日本を訪れ、私たちの姉妹が参加してきたとのこと。

神の国を地上に実現する鍵はトランスフォームされた

KINGDOM MIND

にあるようだ。

リバイバルって?

正直、この言葉にはアレルギーを感じてきた。リバイバル音頭を踊ることも、踊らされることも真っ平御免と思っていた。それはどこかにヤラセの臭いが漂っているからだ。日本民族総福音化決起集会とかは、かつて全学連などの活動を遠目で見ていた世代としては、ちょっと怖いのだ。そもそも何がリバイバルするわけ?

極私的にはメッセージでも何度も語っているが、神ご自身が御業をして下さらないならば、私は何もする気がないですから、と正直思っていた。人間の汗とか働きは臭うだけ。「かっみさまにィ~、すべての栄光をお返ししますゥ~」という臭さだ。神は私たちの栄光のために奥義なる素晴らしい嗣業を用意してくださったと書いてあるのだ(1Cor 2:7)。素直に受け取れば良いだけ。

かくしてやや斜めに構えつつ、六本木やJazz Liveなどの遊びにかまけてきた私ではあるが(これはこれで実に楽しい時間だった)、どうも神はすでにご自分の業をなされてしまったようだ。12月のあの経験をどう理解するか、御言葉を調べ、いろいろな証を渉猟してきたが、少しづつ納得できつつあるのだ。あの時に見たり聞いたりしたことは今でも鮮明に焼き付いている。その意味はまだ不明の部分も残されているのだが・・・。

リバイバル-私にとって最も愚かしくかつ避けて通りたかった事態*1。これは神の国の現出、主ご自身の現れだ。神の国はリアルかつタンジブルに地上にもたらされるのだ。手で触れることができるほどに。そしてすべては臨在の雲の中で、その栄光、重さにあって神ご自身がなさるのだ。

神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。-1Cor 4:20

*1:本来、リバイバルは神のなさること、厳粛なことなのだ。人間の業が入るとそれは単なる音頭になってしまう。本当のところこれを私は嫌ってきたのだ。

私たちのアイデンティティと居場所と付与された権威

天の御心を地においてなす鍵は、3つ。私たちは、何者であるか、どこにいるのか、そして何をなし得るのか。

・アイデンティティー→もちろん神の子(John 1:12)
・居場所→キリストと共に復活して天の座(Eph 2:6)
・付与された権威→蛇やさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威。ゆえに害を加えるものは何一つない(Luke 10:19)

問題はこの御言葉をどう理解するか。神の子であるとはどういうこと?天に座しているとは?敵のあらゆる力に打ち勝つ?ここで思い(mind)のトランスフォーメーションが必要なのだ。これまで世で養った理解では到底ないのだから!まことに

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。・・・
「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:16

とあるとおり。私たちの生来の思いでは決して理解できない(1Cor 2:14)。それは宗教の教義を作り出すだけ。が、イエスご自身が御父の御心を実践してデモンストレーションして下さっている。「わたしを見る者は父を見たのである」と。必要なのは聖霊による啓示(光)だ。まことに聖霊こそいのちの成長および御国の統治の鍵となるお方なのだ。

神の国は、飲み食いではなく、聖霊にある義と平和と喜びなのです。-Rom 14:17

天の領域と地の領域

いつもの再建主義の富井氏が興味深い記事を書いておられる。霊的世界に軽く対応することはリスクがあるということだろう。まことにこの世界は見えない世界の実体の反映なのだ(Heb 11:3)。

tomi 2015/01/22(木) 22:32

宗教家への侮辱は自分を滅ぼす
霊的世界の存在は、現象世界の存在の優越を嫌う。
霊的存在は、現象世界のボスである。
彼らはプライドを持っている。
神もサタンも主権者としてふるまうから、人間が霊的世界を利用しようとしたり、バカにするようなことをすると、報復する。
たとえば、あるプロデューサーがヘビメタグループを作って、悪魔崇拝の儀式を真似たり、バフォメットや魔方陣などを利用する。
このプロデューサーには「そんな宗教的理由はないです。単なるファッションとして・・・」というかもしれないが、霊的世界の存在はそれを放置しない。
サタン崇拝の真似ごとをした人々を利用して、さらに過激なことをやらせようとする。
いろいろなアイデアを与えて、ヒットさえ、悪魔の影響を拡大するために資金も人材も提供する。
霊的世界を利用しようとする人間は、その霊的世界に利用され、どうしようもないくらいにこき使われる。
そして最後、利用する意味がなくなったら殺す。
霊的世界の存在の知恵と力は、現象世界の存在をはるかに凌駕しているので抵抗することはできない。
唯一抵抗する手段は、その霊的存在よりも強い霊的存在に頼ることである。
つまり、サタンに対抗するには神に祈るしかない。
遊びであってもサタンに属することを利用してはならないのはこういう理由からだ。
誰でも為政者が宗教者を利用したり、攻撃すると、霊的存在は、その為政者に復讐する。
「現象世界の存在が、霊的存在にたてつくな」と。
信長は僧侶を殺害したが、最後、本能寺という宗教施設で殺される。
ウジヤ王は、祭司以外に行ってはならない祭儀を行ったためにらい病になった。
天が上で、地が下なのである。
霊的存在は、現象的存在を「地上のもの」として低く見ている。
現象世界の存在である為政者が、霊的世界との取次を行う祭司を侮辱することは、創造秩序を犯すことになる。
どの地域に行っても僧侶や司祭、祭司、牧師、伝道師などが尊称されるのは、それをしないと、ろくなことが起きないからなのだ。
そういう体験をすべての文化が経験してきた。
聖書では、どんなにろくでもない親でも、親に暴力をふるったり、侮辱するような子は、処刑の対象になる。
なぜか。
それが創造の秩序だから。
預言者エリシャに対して「禿げ頭よ、上れ」とはやしたて、無礼を働いた子供たちは、その場に熊が現れ、殺された。
どの世界でも、宗教家への無礼は、必ず自分に跳ね返る。
神的文化では、このような秩序への自覚が鋭くなる。
だから、冒涜罪を重く受け取る。

神が人を創造されたとき、

主なる神は土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹きいれられた。そこで人は生きる魂となった。-Gen 2:7

体は容器、そこに命の息=霊を吹き込むと、生きる魂となった。魂は思い・感情・意志からなるが、私たちの自意識の座である。これは物質である体と霊との接触から生じている。私たちは霊にいます神の臨在を魂で意識することができる。それを体に伝達してニューロンの興奮が生じると行動となる。つまり非物質的な存在と物質的な存在は相互作用をなし得るのだ!だから祈りには具体的な力がある。祈りは霊的領域に反響し、その世界を動かす。それが地的現象として現出するのだ。このことを私は中等度難聴であった右耳の癒しと、実はもうひとつ癒しを経験して実際に確認した。確かに祈りは山をも動かすのだ。

神の信仰を持ちなさい。よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じているなら、そのとおりに成るであろう。
そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。-Mark 11:22-24

罪のゆるしと病の癒し

Dr.Lukeは最近、しるしや不思議や癒しに傾ていると感じる向きもあると思う。私自身がこれまで軽く扱ってきた領域であるが、実は私自身に信仰がなかったためなのだ。だから語れなかったし、信仰の欠如を感じていた故に、あえてそれらを蚊帳の外に置きたかったのであろう。

マルコ2章において、中風の男に向かって主が言われる、「あなたの罪はゆるされる」(Mark 2:5)。これに律法学者たちが神を冒涜していると考えると、イエスは霊によってそれを見抜き、「なぜそんな考えを心に抱くのか。中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、。『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」。そして、中風の人に言われた、「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(Mark 2:8-11)。

現代の私たちにとって、どちらが易しいであろうか、「あなたの罪は赦される」と言うのと、「起きて、床を担いで歩け」と言うのと。正直に告白すると、私には後者は言えなかった。なぜ?前者は自分にとってリスクがない。後者は大恥をかくリスクがある。しかし、実は前者を語ることの方が神のみ前に大きなリスクがあるのだ!極私的には罪の赦しを病の癒しより低い価値のものとしていたのだ。しかし、イエスにとっては罪の赦しの権威を持っているゆえに、病の癒しは容易なものであったのだ。

ここでの論点の本質はこうだ。いわゆるしるしや不思議や病の癒しを軽んじ、それよりも"高尚な"聖化されることや、高い道徳や霊性の追及に明け暮れる人々がいる。しかしそのような人々に向かってイエスは言われる:天の国に入るためにはあなたがたの義は律法学者やパリサイ人に勝る必要がある、と(Matt 5:20)。もっと言えば、人の獲得するあるいは達成する義ではなく、神のレベルの義であり、神が聖であるように聖となる必要があるのだ!(Lev 11:44)。我々にあなたにできるでしょうか?もちろん、ノー。言いたいことはこうだ。しるしや不思議や病の癒しを軽んじたり、認めない人たちは、実はそれらよりももっと奇跡的(=不可能)なことを自分の力で達成しようとしていることに気がつくべきだということ。逆に言えば、それらを達成できたら、しるしや不思議や病の癒しは当たり前に起きるということだ!Are you with me?

要するに救われること、霊が生かされること、キリストが聖霊によって内住されること、魂が造り替えられること、いずれ体が贖われること。これら自体がすでにしるしであり、不思議であり、奇跡なのだ!そもそも人にはできないこと。が、神にはできる。異言はない、しるし・不思議もない、癒しもない、預言すらない・・・・。嗚呼、こういう人々はとんでもない勘違いをしている。いや、私自身がそうだった。スーパー・コンピューターが自然にできたと信じる人はいまい。が、進化論者はそれを作った人間は自然にできたと信じている。これと同じレベルの勘違いなのだ。

改めて神から問われていることは―

あなたは何を求めているのか?

御言葉はやばい-イエスの期待する信仰

わたしは唇の実りを創造し、与えよう。平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。わたしは彼をいやす、と主は言われる。-Isa 57:19

ここの「創造する」はヘブル語の"bara"、創世記1章1節の「はじめに神は天と地を創造された」の創造と同じ。つまり無から有を創り出すことだ。ローマ書にこうあるとおりだ:

死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神を、アブラハムは信じ、その御前でわたしたちの父となったのです。-Rom 4:17

そして癒しがなされる。目に見えない実体がこの世界にフレーム化される(Heb 11:3)。その「唇の実」とはヘブル書にこうある:

だから、イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう。-Heb 13:15

かくして賛美と感謝により父なる神を仰ぐとき*1、創造、すなわち無から有が生じることがなされるのだ。

群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。-Matt 14:19-20

で、私たちにもイエスと同じ業がなし得る、否、それ以上のことが・・・・とイエスは言われる。WOW!最近感じていることは、次の主のお言葉の信仰とは何か?カギは、御心が天になる通り地にもなること。しかも御心はすべてイエスがなされたことなのだ。

しかし、人の子が来るとき、地上に信仰が見られるであろうか。-Luke 18:8

福音書を見ると分かるとおり、イエスは事あるごとに弟子たちに信仰が欠如していることに苛立ち、怒りを爆発させてもいる。主よ、あなたは神だから、弟子たちは単なる人間なのに、あなたは何と気が短いのですか?と私はイエスの反応の意味が理解できず、少なからず不審に思ったものだ*2。が、よく考えてみると、もし弟子たちがイエスの期待する信仰をそもそも持ち得ないのであれば、イエスはこのようには対応されないだろう。幼稚園児が微分積分できなくても苛立つことも怒ることもないし、そのような対応はむしろ罪であろう。イエスが彼らにあのように反応されたことは、とりもなおさず弟子たちはイエスの期待する信仰を当然に持ち得る、否、持つべきであることの証拠なのだ。だからイエスは彼らの信仰の欠如を叱責したのだ。Are you with me?

イエスの期待する信仰のレベルがどれほどのものか。御言葉はやはりやばいのだ!

すべて信仰によらないことは罪である。-Rom 14:23*3

*1:これは神の大庭に入ること、すなわち臨在と栄光に満たされることだ(Ps 100:1-5)。
*2:少なくともペテロはイエスが「来なさい」と言われたとき(レーマ)、それに応答する間は水の上を歩いたのだ。が、現実の風と波を見るや沈みかけたが、イエスはすぐさま彼を救い上げた。単なる人間が水の上を歩く事例がここにひとつ存在している!
*3:これを裁きの言葉ととるか、励ましの言葉ととるか。私は大いに励まされるのだ。イエスの期待する信仰を私たちが持ち得るポテンシャルがあるから、主はこのように言われるのだから。お言葉通りこの身になりますように!

神に手で触れる感覚

12月のあのこと以来、すでに1か月近くになるが、ますます神が近くなっている。内なるキリストに触れるとか、内側が甘く満たされるとか、平安が満ちるとか、喜びが湧き上がるとか、これらの内的経験はしていた。ワーシップで主に迫られる感覚や、その御手で包まれる感覚も味わっていた。が、この手で触れる感覚は知らなかった。ちょうどプールの中で手を広げると水を感じるように、この物理的空間の中に手を広げると、先に書いたとおり、天の空気(霊)に触れるのだ。緑の自然の中に入ると神の創造に触れ、神の臨在を覚えることはよくあった。が、今、東京の高層ビル群を見るときも、神の霊が包んでいるのが分かる。創世記1章に

はじめに神は天と地とを創造された。
地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。-Gen 1:1-2

私はこの1節と2節の間にギャップがあると考えているが、それはまたの機会にして、2節では形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあったが、神の霊が水のおもてをおおっていたとある。あたかも孵化するのを待つめんどりが卵を守り覆っているかのように、神の霊は水のおもてを守り覆いつつ、神の信仰が熟し、神のレーマが発せられる時を待っていたかのようだ。この覆って下さる霊が手に触れ、文字通り感じられるのだ。It's tangible!「神に手で触れる」とか言うと、これはちょっと逝っているかもと思われるだろうが、事実なのだ。なんなのだ、これは・・・・。と、新約聖書を見ると、エペソ書にこうあった:

〔人〕知を超えたキリストの愛を知って、神の全き充満へとみたされるために〔である〕。-Eph 3:19(岩波訳)

口語訳などでは「神にみちているすべてのものをもって」、KJVは"be filled with all the fulness of God"となっているが、原語は"eis"、Strongによると

A primary preposition; to or into (indicating the point reached or entered), of place, time, or (figuratively) purpose (result, etc.)

要するに岩波訳のように「の中へと(into)」が適切。神の全き充満へと満たされる、すなわち神の全き充満の中に入り込むことなのだ*1。プールに入っているときは、プールの水の全き充満へと満たされている。だから、その充満に手で触れることができるわけ。神は遠く離れているお方ではない。今、ここにいます方、I AMなるお方。私たちを守り包んで下さるお方。「信仰は"I AM"の実体化だ」と10年以上前に著書に書いたが、自己預言的にその成就を味わっている。まことに

The Lord is at hand.-Php 4:5

*1:神の全き充満に入るって思想、これかなりやばくないでしょうか?私が逝っている以前に、パウロはもっと逝っていることを書いているのだ!要するに聖書はやばい。繰り返すが、創価学会や幸福の科学の方がまともなのだ。

未知の体験に処する

どうも自分はこれまでと違う霊的なフェーズあるいはスフィアに入ってしまったようだ。とにかく今までの経験のデータベースや内的な世界モデルに存在しない事象を経験している。御言葉を離れたいわゆる霊的経験は危険であることは十分に承知しているので、今、御言葉による裏付け作業を行っているわけ。その過程でもっとも驚きの発見が「栄光(kabod)」の経験と意味だ。それは第一義的に「重さ」。まことに「何かを知っていると思う者は知るべきほどのことも知らない」(1Cor 8:2)とあるとおりだ。果たしてこれからどんなことを経験するのだろうか?

御心が天になるとおり、地にもなりますように!

神の業は栄光にあってなされる

いわゆるしるしや不思議を、それ自体を目的に追求する人々がいるようだ。そのために有名な油注ぎの器と称する人物から、我先に預言や按手を受けたがるのだ。賜物と称するある種の超能力を授けてもらうために。私はこの手の話にはきわめて不快感を覚えてきたことはすでにここの読者であればご存知と思う。

しかし、最近気がついたのは、「たらいの水と一緒に赤子までも流すな」ということ。認知療法の創始者ベックのいう認知の歪みのリストに「過度な一般化」がある。少数の例から一般則を強引に導くのだ。自然科学の思考は(不完全)帰納法による。実験や観察により得られたデータの範囲において、何らかの規則性や法則を見出す手法。が、もちろん自然界のすべてを調べることはできないから例外が必ず存在する*1。これを「白いカラスの論理」と言う。今まで見たカラスはみな黒かった。ゆえにカラスは黒いと普通に人は思い込んでいる。しかし白いカラスの不存在は証明されていない!

何を言いたいか。すなわち、現代においても真正なしるしや不思議は存在し得ると言うことだ。少なくとも私は、中度難聴と診断され、医学的には匙を投げられた自分の右耳が癒されることを経験した。ここでの問題はこういったしるしや不思議がないと結論づける前に、それらを求める動機が問われるべきだ、と言う点。これは私自身のスタンスの悔い改めでもある。どうもいろいろな証しを調べていると、しるしや不思議、あるいはこういった神による癒しが現れる条件あるいは舞台設定があるようだ。それは・・・「神の栄光の中で」、"in His Glory"だ。

先に栄光はへブル語で"kabod"、その原義は「重さ」であり、神の栄光に臨まれるとき、その重さに圧倒される経験を極私的にしたことを何度も書いている。それはきわめてtangile、つまり物理的に触れるあるいは感じることができるのだ。列王記上8章11節(1Ki 8:11)にあるとおり、まず神の雲が臨み、栄光に包まれるとき、その重さのために立っていられなくなる。この時に神はご自分の業をなさるのだ。例えば、私たちの必要の満たしについて、有名なピリピ4章19節を見てみると、岩波訳ではこうある*2

私の神は、あなたがたのすべての必要を、自らの富にしたがって、キリスト・イエスにおいて栄光のうちに、満たして下さるであろう。-Phil 4:19

ここの「キリスト・イエスにおいて」と「栄光のうちに」はともに「満たして下さる」にかかるとすべきなのだ。私たちはキリスト・イエスにおいてすでにあらゆる嗣業を得ている(2Pet 1:3、現在完了形)。それが信仰によって実体となるのは(Heb 11:1)、栄光のうちにあってなのだ。この臨在の雲が満ち、栄光の重さが感じられる状態において、しばしば神は語る。それがレーマだ。するとその見えない実体(substance)はこの時空間の中に、ヘブル11章3節にあるとおりに(Heb 11:3)、現出する(framed)。

栄光は重さ。きわめて分かり易い。今、両手を軽く上げるだけで臨在を感じる。というより、魚が水につねに包まれているように、私たちもこの物理的時空間に生きながら、第三の天の空気(霊)に触れているのだ。なぜ?イエスとともに天の座についていると聖書は明確に告げている(Eph 2:6)*3。私はリアルにこの天の空気(霊)に触れることを知った。それはいつでもどこでも触れることができるのだ。まことにダビデが証しているとおり:

わたしはどこへ行って、あなたの霊を離れましょうか。わたしはどこへ行って、あなたのみ前をのがれましょうか。-Ps 139:7

神の霊に包まれていることの実感-なんという栄光であろう。まことに神は私たちのための栄光を備えて下さっているのだ(1Cor 2:7)。Glory be to God!

■追記:癒しについてはマラキ書にこうある:

しかしわが名を恐れるあなたがたには、義の太陽がのぼり、その翼には、いやす力を備えている。あなたがたは牛舎から出る子牛のように外に出て、とびはねる。-Mal 4:2

義の太陽=御子イエス。神の栄光の反映、実体の刻印たるお方だ。癒しも栄光に伴う。

*1:すべてを調べ尽くした結論を、論理学的には「全称命題」と称する。数学的帰納法は全称命題であるが、自然科学は違う。つねに例外が、これを反例というが、存在するのだ。
*2:口語訳や新改訳などはどうも訳が不適切。
*3:ここの「天のところ」とか「天の座」と訳されている原語は"epouranios"。Thayerによるとこうある:

Thayer Definition:
1) existing in heaven
 1a) things that take place in heaven
 1b) the heavenly regions
  1b1) heaven itself, the abode of God and angels
  1b2) the lower heavens, of the stars
  1b3) the heavens, of the clouds
 1c) the heavenly temple or sanctuary
2) of heavenly origin or nature

日々キリストにありて

ファイル 4686-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません(ローマ6:11,12)。

 罪はすべてのアダムの子孫がその中に生まれる状態です(ローマ5:12)。罪は神から独立して生きる様です。それはサタンによる偽りであり、人はいのちの創造主から離れて、神に従うことなく、人生の意味と目的を見出すことができると信じているのです(申命記30:19,20;1ヨハネ5:12)。ノンクリスチャンにあっては、罪は古い性質に浸透しており、古い私を支配し、肉の行いを誘発します。サタンはあらゆる罪の本質に潜んでいます(1ヨハネ3:8)。彼は人々を欺き、神に反逆するように嘘を信じこませ、また促します。
 あなたがキリストを受け入れたとき、あなたは罪に対して死に、またあなたを支配するその力は打ち破られました。サタンと罪は死んではいません。それらは依然として強くかつ訴える力があります。しかしあなたはもはや罪を犯す必要はないのです。なぜならあなたは罪に対して死に、キリストにあって神に対して生きているからです(ローマ6:11)。あなたがそうみなすから罪に対して死ぬのではありません。それはすでに成し遂げられているからそうみなすのです。キリストにあってすでにあなたは罪に対して死んでいるのです。
 パウロはさらに言います、私たちは自分の体を不義のためにもちいるべきではないと(13節)。もしそうすれば、私たちは罪が私たちの死ぬべき体を支配することを許します。例えば、自分の体を罪に支配に任せて、不義の道具として用いることなく性的な罪を犯すことはできません。主に対して自分の体をどう誤って用いているかを尋ね求めてください。特に性的な領域においてです。その誤った用い方を告白して捨て去り、生ける供え物として自分の体を神に捧げてください。「あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従」わないことはあなたの責任です(ローマ6:12)。

 愛する主よ、私は自分に対する罪の力が打ち破られたことを知っています。今日、その真理の光にあって罪を捨て去り、私の体をあなたに従うことができるようにして下さい。

神の奥義なる嗣業

むしろ私たちは、奥義の中にあって〔今に至るまで〕隠されてきた神の知恵を語るのであって、それを神は、世々の〔創造〕以前に、私たちの栄光のために、あらかじめ定められておかれたのである。・・・
「目が見ず、耳が聞かず、人間の心に思いも浮かばなかったこと、そのことを神は、神を愛する者たちのために用意されたのだ」。
そして、まさにこの私たちにこそ神は、霊をとおして〔そのことを〕啓示されたのである。霊は、すべてを、神の深みをさえも、探り尽すからである。
・・・霊的なものによって霊的なことがらを判断しながら、そうするのである。・・・
しかし、自然的な*1人間は、神の霊のことがらを受け容れない。・・・しかし私たちこそは、キリストの思いをもっているのである。-1Cor 2:7-16(岩波訳)

御言葉(ロゴス)を魂の機能のひとつである思いによって理解することはひとつのことで、もちろん必要不可欠。知性による祈りもあるのだから(1Cor 14:15)。しかしこのレベルで満足して、ここで止まっては大いなる損失。霊によりその言葉が指しているリアリティにタッチしてゲットする必要がある。これは神が、私たちの栄光のために用意してくださったもの。よく「神っさまにすべての栄光をお返しします~っ」とかやるが、これは何度も言っている通り、臭い。神は私たちの栄光のために「人間の心に思いも浮かばなかったこと」を用意して下さっている。これは霊的領域に存在する。それを信仰は実体とする。すると地的領域に現出するのだ。神の国はロゴスにではなく、デュナミスにある。

神は何を用意して下さっているのだろうか?もちろん御子を下さった。彼のうちにこそ神性も霊的資産もすべてが存在する。信じる者はすでにそれを所有している。キリストの思いすら!が、これまで私の思いのキャパ、それはただちに信仰のキャパとなるが、により制限してきた。神の用意された富を経験化する度合いは各人のキャパに従っている。ここでマインドのトランスフォーメーションがきわめて重要となるのだ。これまでの自分の領域を脱すること、それには人間的(魂的)にはやや勇気も必要とされる。満々と流れるヨルダン川にまず足を突っ込むこと、セルフにとってのカンファート・ゾーンを脱することだから*2。それはセルフの終わり。が、霊的法則はこうだ:捨てれば、その何十倍も得る、と!

*1:脚注として、psycheの形容詞形・・・、要するに「魂的な」の意味。
*2:世から救い出される時は、まず紅海が割れてから足を突っ込んだ。救われた後のヨルダン川の経験ではその順序が逆になる。

TODAY'S CELEBRATION 【Jan 11, 2015】

UPしました。

●タイトル:神の信仰を持て

●聖書箇所:ヘブル11:1-3;マルコ11:22-24;マラキ4:2;3ヨハネ2など

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