Utility

Calendar

< 2024.4 >
S M T W T F S
- 1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 - - - -
- - - - - - -

WORLD CLOCK

COUNTER

    Access.....
    Yesterday......
    Today.............

KF_SITE

FOR MEMBERS

KF_PODCAST

YOUTUBE ARCHIVE

OUR WORSHIP

TWITTER UPDATE

INSTAGRAM UPDATE

PRAY FOR ISRAEL

KINGDOM FAITH(UK)

NEW LIFE CHURCH(UK)

QRcode

BIBLE SEARCH

Entry Search

Recent Entry

Recent Comment

未承認
2017/08/07 18:42 未承認
Re:聖書をキリスト教から解放せよ!
2015/04/22 09:49 菊千代
Re:「当たり前」が崩れる時代
2015/04/20 07:42 Luke
Re:出版への状況
2015/04/20 07:41 Luke
Re:出版への状況
2015/04/19 21:55 toshi

Recent Trackback

PJ 高橋清隆氏の記事が出ていました。
2008/06/25 20:45 AAA植草一秀氏を応援するブログAAA
負のレガシー
2008/06/18 16:03 リチャードの日記
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:21 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
キリスト者とインターネット
2008/06/18 09:12 キリスト教 プロテスタント 聖書 信仰
産声を上げたKFC、、、、、
2008/05/05 12:10 thelongstreamingully

タグ一覧

Link

Entry

トップ > 信仰

地を従わせよ!

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」-Gen 1:28

うーむ、「地を従わせよ」・・・この言葉が霊に響いてきた。どういう意味だ?物質界を従わせることか?*1そうであれば、嵐を沈めたり、いちじくを呪ったり、山よ動けと命じることや、魚の口から銀貨が出てくることの根拠となる。生物だけでなく、物質界も人間に委ねられたということか。それとも地はサタンの象徴だから「サタンを治めよ」か?再建主義の富井氏はこのような雰囲気であるが・・・。

神は人間にどこまでを委ねておられるのだろうか?聖書をなんとなく読むと素通りする部分だが、マジ受けするとこれはやばいことかもしれない。

*1:もちろん人類がサイエンスによって治めていることは事実であるが・・・

イエスはポータル

ひと仕事が終わり、内側に実に深い安息が満ちている。なんだろう、この安息は・・・。

わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。-John 10:9-10

an abundant life!!! クリスチャンは「きよく・まずしく・よわよわしく・・・」ではないのだ。豊かないのちと生。神の豊かさに満ち溢れる生活、なぜなら私たちは王だから。すべてを統治する。

わたしたちを王とし、御自身の父である神に仕える祭司としてくださった方に、栄光と力が世々限りなくありますように、アーメン。-Rev 1:6

あらゆる面でprosperすること。ヨハネの祈り、SO BE IT!!!

愛する者よ、あなたの魂が繁栄しているように、あなたがすべての面で繁栄し、健康であるようにと祈っています。-1John 1:2

イエスは天の門、この霊的真理に入り込むためのポータルだ。とにかく御言葉が3Dになっている

解くことと縛ること

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の門もそれに打ち勝つことはない。
わたしは、あなたに天国のかぎ(複数形)を授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、すでに天でもつながれており、あなたが地上で解くことはすでに天でも解かれているであろう。-Matt 16:18-19

よく聖霊派では「悪霊をしばる」と宣言する。ところが何かを解くことをあまり聞いたことがない。メッセでも語ったが、Bill Johnsonがある裁判に巻き込まれたとき、不正な進行だったので、悪霊をしばった。ところが何も起きない。そこで聖霊に求めると、「正義の霊を解け」と言われ、実践すると裁判の進行は一転、勝訴したとのこと。

ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。神はキリストにあって、天上で霊のもろもろの祝福をもって、わたしたちを祝福し-Eph 1:3

私たちはすでに天上で霊のすべての祝福を受けている。だからこのサブスタンスを地上において解くのだ。癒しも、必要の満たしも、富も、権威も、栄光も、すべて原則は同じ。天で成就している事実を地で解くこと。これは最近開かれた霊的実行である。目に見える事柄は見えないものによるのだ。見えない世界こそがリアルなのだから。

わたしたちは見えるものではなく、見えないものに目を注ぎます。見えるものは過ぎ去りますが、見えないものは永遠に存続するからです。-2Cor 4:18

どちらに自分のリアル感が置かれているか。これはそれぞれの信仰の歩みのクオリティを決める。

日々キリストにありて

ファイル 4833-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません(1コリント10:20)。

 クリスチャンが教会における悪霊的な影響力に疑問を呈するようになりつつある一方、この世では霊的領域に対して無防備に明け渡すようになってきました。西洋社会は世界観に関して重大なパラダイムシフトを経験しているのです。私たちの文化において、その顕著な例は、ニューエイジ運動の隆盛、パラサイコロジーをサイエンスとして受容、スーパーナチュラルな領域に関する興味の増大、サタニズムが目に見える形となっていることなどです。ニューエイジ神秘主義は1960年代に東洋神秘思想の流れと共に台頭してきましたが、1980年代にセレブたちがそれをもてはやすことにより大衆化しました。ラジオやテレビのトークショーでチャネラー(霊媒師)が普通に登場し、自分たちの霊的ガイド(悪霊)について誇るようになしました。
 しかしニューエイジ運動はセレブたちの御用達だけではありません。ニューエイジ思想は全国的にビジネス、教育、宗教にすらも深く侵入しています。最近私のクラスのふたりの学生に対して、私たちの学校から2ブロック離れたニューエイジのカンファレンスに研究のために出席するように促しました。そのドアには費用がひとり65ドルとあり、彼らは帰ろうとしました。しかしふたりの見知らぬ人が近寄ってきて、「私たちはあなたがたにこれらのチケットを上げるように導かれましたから」とチケットをくれたので、ふたりの学生は中に入りました。 
 彼らは私に次のように報告しました。スピーカーはカンファレンス出席者に対してメディテーションを実行するように促しました。彼はみんなに霊的ガイドがそれぞれの脇に来ることを想像するように語りました。最後に、「今、あなたの霊的ガイドを内側に導き入れなさい」と言いました。私はほとんど信じられませんでした。悪魔はバイオラ大学のわずか2ブロック先で祭壇に呼び出されていたのです!
 ニューエイジとオカルトの流布についてあなたは心配し、また恐れますか?その必要はありません。キリストにあってあなたや家族に対する闇のあらゆる脅かしを無効とし、追い出す資源を持っているのですから。神の言葉の真理に固く立ち、キリストにあるあなたのアイデンティティーの光の中に歩んでください。

 主よ、今日、警戒することができますように。悪魔が私の世界に接近する企てに対して。そして御霊の武具によりその要塞を引きずり下ろすことができますように。

■参考:ニューエイジの問題点について

TODAY'S CELEBRATION 【Mar 29, 2015】

UPしました。

タイトルマインドの束縛を解かれよ

聖書箇所:黙示録1:6;イザヤ10:27;ローマ5:17など

4月5日のセレブ

 ・場所:エスカル会館2F会議室
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship®

ニューエイジと私たちの信の違い

ニューエイジでは、「願うものを強く念じよ、するとそれが物質化する」と教える。私たちの信は違う。強く念じるのではない。それはマインドの働きであるが、私たちのマインドのトランスフォーメーションは、マインド自体が何かの超能力を得るためのものではない*1。聖書に書かれている神の約束を自分のものとするためなのだ。

つまり先に神の約束というサブスタンスがある。それを自分のものとするのだ。これが立証(proof)。私たちのマインドが御言葉にそうようになり、キリストの思いが反映するようになることなのだ。この時、霊はマインドの抵抗を受けずに、サブスタンスを容易に把握できるようになる。

わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもすでにつながれており、あなたが地上で解くことは天でもすでに解かれるているであろう」。-Matt 16:19

時制に注意して欲しい。天が先行している。御心が天になるとおり、地にもなるように、だから。私たちの信は決して天に先行しない。サブスタンスはすでにあるのだ。主イエスが「私の名によって求めるものはなんでもかなえてあげよう」と言われたから、私たちは求め、何でも得るのだ。決して自分勝手に何かを物質化するわけではない。

*1:マインド自体にある種の超能力があることはあると思っている。

言葉の罠

ニール・アンダーソンの黙想にもあるが、昨今ニューエイジが隆盛をきわめている。私の書いた記事も紹介しているが、その中に、私が最近用いている単語と同じ単語をニューエイジでも用いている。たとえばチャネルとかポータルとか。で、この単語を見るだけで、Dr.Lukeはニューエイジに走ったとか思われる向きもあると思う。

これは邦語訳聖書の問題点でも何度も指摘しているが、たとえば、霊と魂を、思いと心を混同している場合がきわめて多い。日本語で聖書を読んで真理を理解することは困難なのだ。なぜか、これもすでに指摘したが、pistisを「信仰」と訳した時点でアウト。日本語の世界観が入り込むからだ。pistisは「信じて仰ぐ」のではない!聖書は聖書で定義すること。pistisとはサブスタンスとその立証なのだ(Heb 11:1)。

何を言いたいか。私は、要するに「チャネル」とか「ポータル」と言っても、それは普通名詞として用いているだけ。日本語で言えば、単なる「門」、「出入り口」。そもそも聖書で「天の門」、「ハデスの門」と用いているのだ。もっと言えば、サタンは神の物真似をするだけ。ニューエイジが聖書をパクったのだ。表向きの単語に引きずられないように。そもそも霊(spirit)にしてもニューエイジでもオカルトでも用いている。しかし私たちの使う霊は聖書によって定義されている。物事の表層で判断しないようにお願いする次第。

一言付け加えると、ニューエイジの本質的問題点はイエスの十字架と血潮によらず、人間が神的能力を開発する点。あるいはgodsになろうとする試み。私たちはイエスの十字架と血により、ニュー・クリエーションとされている。この真のアイデンティティーはpistisにより私たちにおいて実体化、あるいはフレーム化される。この時に私たちのマインドがトランスフォーメーションされる必要があるのだ。ここに各人の十字架が働く。私たちのマインドは霊(スーパーナチュラル)と魂(ナチュラル)の接点において機能するのだ。

私の言っていること、聖書真理から離れているかな?

追記:もうひとつ指摘しておく。ヤコブの逸話だが、ここで出てきた「天の門」とか「神の家」を例え話と理解する向きがあるようだ。主は「この岩の上にわたしの教会を建てよう。ハデスの門も打ち勝たない」と言われた。これも例え話にするのだ。ノー。現実を見てみよ。地獄の門(ポータル)があちこちに開いているではないか。私たちエクレシアは天の門なのだ。神の国のサブスタンスを現すのだ。それが癒しであり、しるし、不思議の形となる。なぜなら神の国はもともとスーパーナチュラルだから。御言葉を2Dの世界に留めてはならない、神は3Dの世界で実際にわざをされるのだ。実体として。神のサブスタンスであるイエスが目で見え、手に触れたようにだ。

私たちの霊はポータル

・神の国はあなたがたの真っ只中にある。

・神の国は聖霊にある義と平安と喜びである。

ファイル 4831-1.jpg

この図はシェーマとして理解しやすいのでずっと紹介しているが、ひとつ罠がある。霊が閉じ込められてしまっている印象を与えるのだ。アダムの堕落の後霊は死んだが、クリスチャンは再生されている(Born Again)。そして聖霊が臨在されることにより父と子が住まわれる。ゆえに神の国は私たちの内側に存在する。

つまり私たちの霊は私たちの内側に閉じ込められているのではなく、むしろ天のポータルあるいはチャネルとして無限の霊的領域へと開かれているのだ。私たちの霊を通して、神の国はこの時空間に現出する。私たちの霊はどこでもドアのようなもの。そこを通してサブスタンスがフレーム化される。それは神のいのちと統治・力・臨在をもたらすのだ。それは私たちが口を開いて語り出すことによる。語り出された言葉には神の国があるのだ。

「私は信じた。それゆえに語った。」と書いてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っている私たちも、信じているゆえに語るのです。-2Cor 4:13

信はサブスタンスをフレーム化する

今回、基本の基本に戻らされて、結局、信仰、というより信がなんなのか、この再チェックに絞られた。

・信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

・さて、信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。

・信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです。

・さて、信仰とは望んでいることの実体、目に見えないことをあばくことです。

・さて、信とは、望まれている事柄の実体化であり、未だ見ていない事柄を確認することである。

・Now faith is the substance of things hoped for, the evidence of things not seen.

・εστινG1510 V-PAI-3S δεG1161 CONJ πιστιςG4102 N-NSF ελπιζομενωνG1679 V-PPP-GPM υποστασιςG5287 N-NSF πραγματωνG4229 N-GPN ελεγχοςG1650 N-NSM ουG3756 PRT-N βλεπομενωνG991 V-PPP-GPN

・[3isG1510.2.3 1AndG1161 2beliefG4102 5of hopingG1679 4 the reality]G5287 of things,G4229 the proofG1650 notG3756 being seen.G991

どれがどの訳とは指定しないが、それぞれ、訳者の解釈が入っていることは明らかであろう。ギリシャ語の対語英訳を見るとKJVが一番原語に近い。ただ"evidence"は"proof"の方がいいかもしれない。

・さて、信とは望まれていることのサブスタンスであり、見ていないことの立証である。(私訳)

サブスタンスに「確信」などの訳語はとにかく不適切。だから「自我を十字架につけてぇっ」とか踏ん張るクルシチャンが登場する。そもそもそんなことができるわけがないでしょうに。すでにつけられたのだ!信は物理的領域と霊的領域をつなげるチャネル、あるいはポータルだ。祈りを続けるうちに、内なる神の国にチャネルが開く。このときサブスタンスに触れるのだ。この感覚が「得た」とか「かなえられた」という表象としてマインドに現れる。

クリスチャンの歩みはみな信による。霊の再生も、魂の造り変え(いわゆる聖化)も、病の癒しも、しるし・不思議も、みなサブスタンスに触れることによるのだ。自我を十字架につけてぇっ・・・などは所詮魂の中の空回りに過ぎない。

私たちはすでに聖にして完全とされたニュー・クリエーション(Heb 10:10-14)。これがサブスタンス。すでに確立されている。

 **

そして主に向く時には、そのおおいは取り除かれ、わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである(2Cor 3:16-18)。これが"proof(立証)"であり、トランスフォーメーション(メタモルフォーゼ)だ。

**の部分にチャネルが開くと、サブスタンスがプルーフされる。この原則は癒しであれ、奇跡であれ、しるしであれ、みな同じこと。そして主は言われた。

 「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる。-Mark 9:23

ヘブル11章1節の"faith"には定冠詞がない。つまり別にクリスチャン信仰に限らないのだ。先に超能力者の清田君のことばを紹介した:「スプーンを持ってて、グニャグニャに柔らかくなるイメージが浮かぶと本当にそうなって、ついに切れて落ちるんだ。」彼はクリスチャンではないから、霊の再生を受けているわけではない。あくまでも魂の領域、マインドの中で起きることを語っている*1。が、それでも信は機能するのだ。そもそも人間のマインドにはそれだけのパワーがある。アダムが動物を呼ぶとそれが名となった。名は実質と不可分。アダムが各動物をframe化したのだ。

信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉で造られた(framed)のであり、したがって、見えるものは現れているものから出てきたのでないことを、悟るのである。-Heb 11:3

アダムが語ると動物がフレーム化された。これは神が語ると創造があったことと同じ原理だ。信によって語ることによりサブスタンスがフレーム化されるのだ。6日間の創造はすべて神が語り出すことによった。つまり創造は神の信のフレーム化だ。イエスの受肉も神のサブスタンスが物理的時空間に現出(proof)したもの、つまりフレーム化だ。すべて神のわざの原則は信による。なぜなら信によらないことは罪だから(Rom 14:23)。

「自我を十字架につけてぇ」とか、「私は衰えるがあの人は栄える」とか、きわめてもっともらしいキリスト教の標語であるが、真理ではない。神の信ではすべてが完成している。まずその神の信を持てと主は言われる。そのときサブスタンスが私たち個人個人のレベルでプルーフされてフレーム化されるのだ。どこに私の努力が入る余地があるだろうか。すべては神の信に始まり、神の信によって完成されるのだから。

信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。-Heb 12:2

イエスは喜びのゆえに十字架についたのだ!宗教の霊から解かれよ、ニッポンキリスト教のクルシチャンたち!

*1:あるいはある種の霊的領域と関わっているのであろうか?

そもそも信はスーパーナチュラル

最近ここで頻発する「スーパーナチュラル」とかの単語にひっかかる人がいるようです。Lukeさんはしるしだ、不思議だ、奇跡だとこれまで違う方向にいってしまったとか・・・。私は何を言っているかといいますと、そもそも処女が子供を産むとか、復活などはスーパーナチュラルでしょう。それを当たり前と感じてしまうクリスチャンは本当に聖書を信じているのかどうか・・・。聖書の知識・思想体系として知っているだけかも知れません。使徒信条を告白しても、真に信を得ているかは別問題なのです。そこで再チェックが必要かもと思っているのです。それはマインドがトランスフォーメーションされたのではなく、麻痺しているのかもしれません。

本来、聖書の啓示は自分の力で信じることなどはできないのです。私たちの信はサブスタンス(Heb 11:1)。「信仰は望んでいる事柄を確信し・・」とかの訳ではまったくずれています。信はそれ自体がスーパーナチュラル。それはギフトなのです。前にも言いましたが、筑波大の小田晋という精神科医は、イエスは妄想病者であり、クリスチャンはその妄想を信じ込まされている人々だと言っていました。これが聖書を真実に読んでいる人の感想であるべきなのです。当たり前に処女が妊娠した、へえー。イエスは死んで復活した、なるほど~。そんなの当たり前でしょう・・・。この姿勢は真にその御言葉と向き合っているのかどうか。

マインドの制限を覚えれば覚えるほど、私たちの信はスーパーナチュラルであると思います。よく自分はこんなことを信じられたなあ~と。それはまさに聖霊によるのであって、その方の力によらずしては決して信じることはできなかったでしょう。御言葉を解き明かすとか、霊的意義を探るとかいったことではなく、イエスの言葉を聞くだけ。信は聞くこと、聞くことはキリストの言葉(レーマ)によるのですから。このような基本の基本をずーっと再チェックしているわけです。私の見た幻や聞いたことも含めて。その中でいやしとかしるし・不思議も扱っているのです。それのみを求めることをしているわけではありませんので、一応・・・。私はサイババではありませんからそこんとこよろしく~

追記:Lukeさんは偽預言者で永遠のいのちを失うかもしれないと言ってくださる方もおられます。根拠はマタイ7:21-23であると・・・。うーん、そもそもこの節は永遠の救いに関する節ではありません。お心にかけていただくことはありがとうございます。

神のわざはスーパーナチュラル

聖書の啓示はそもそもわれわれのマインドを超えている。つまり理解できない事柄に満ちている。たとえば、自分はよく知っていると思っておられる方も、次の御言葉をよく読んで欲しい*1

私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。

割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造です。

要するに私たちは二千年前、キリストと共に磔刑を受け、共に死んで復活し、新しい創造とされ、天のところに座せしめられた、というわけ。これが私たちの真のアイデンティティーだ。ところがこれを何気に当たり前のように読んでいる人はマインドが閉じている。これはスーパーナチュラルな事象なのだ!Are you with me?

聖書はそもそもがすべてスーパーナチュラルな記事に満ちている*2。神が私たちのうちに住まわれ、神の国がうちにあり、神と交わりをもち、神が私たちの祈りを受けて下さる。

イエスと交わって内側が平安と甘い感覚に満たされることも、天的な霊的領域にある私たちの霊と主の霊の相互作用というサブスタンスが、信によってこの地上にある私たちの肉体の神経系に"感覚"として現出されたものなのだ(Heb 11:1)。

私たちはつねにこの地上の物理的世界と天的な霊的領域の狭間に存在している。私たちが内側の霊を解き放つことは、天的領域のサブスタンスを解き放つことなのだ。だから信じた、それゆえに語るのである。その言葉はこの物理的世界において何かをなす。語り出された神の言葉が無益に帰ることはない(Isa 55:11)。

今回、『真理はあなたを自由にする』の続編を書いてみたいと思い出した*3。題して『神の法-自然法則を超える神の啓示-(スーパーナチュラルなディメンジョンに生きる鍵-faith。聖書は不可能を可能にする生き方を提示する)』(アウトラインだけpdfにて公開します)。

さて、またぞろ異端だ、カルトだ、ニューエイジだ等々、ひと騒動起きることでしょう人は自分のパラダイムやマインドから逸脱することに対しては、まず自分を守るために排除し、さらには攻撃すらしたくなるのが本性なのだ。

*1:実は日本語で聖書を読むとほとんど正確な理解が無理になる。たとえばヘブル11:1、「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである」とか。まったく見当はずれの訳である。
*2:きちんと定義しておくと、ナチュラルとはこの時空間における存在・事象。スーパーナチュラルとは霊的領域におけるサブスタンスのこと。
*3:本書もニッポンキリスト教においては、なんだかよくわからん本だとの評判だった。

ザカリヤとマリアの経験

神の直接のタッチを受けることは不安感を産み、恐れすら感じるものだ。旧約の預言者たちもみな同様に、もうダメだ、自分は死ぬとパニくったのだ。それは新約でも同じ。

ところが、主の使いが彼に現われて、香壇の右に立った。
これを見たザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われたが、御使いは彼に言った。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。・・・」
そこで、ザカリヤは御使いに言った。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」
御使いは答えて言った。「私は神の御前に立つガブリエルです。・・・これらのことが起こる日までは、あなたは、おしになって、ものが言えなくなります。私のことばを信じなかったからです。私のことばは、その時が来れば実現します。」
人々はザカリヤを待っていたが、神殿であまり暇取るので不思議に思った。やがて彼は出て来たが、人々に話をすることができなかった。それで、彼は神殿で幻を見たのだとわかった。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、おしのままであった。-Luke 1:11-22

ザカリヤが不安を覚え、信じることができなかったことは実によく分かる。またしゃべることができなくなっていた。私は主にしばしの猶予を願っている。現在、7:3位で信じることができるようになっているところなのだ。

御使いは、はいって来ると、マリヤに言った。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」
しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考え込んだ。
すると御使いが言った。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。
・・・」
そこで、マリヤは御使いに言った。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」
御使いは答えて言った。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。・・・神にとって不可能なことは一つもありません。」
マリヤは言った。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行った。-Luke 1:18-38

マリアも御使いの訪問に際して恐れ、戸惑った。が、彼女は一度は反論したが、すぐに御使いのことばに服した。こうして彼女は祝福を得た。鍵は聖霊が彼女に臨み、神には不可能はないこと。正確には神の語り出されたことば(レーマ)には不可能はないことだ。そう、われわれが未知の体験をするとき、御霊が臨み、レーマを聞き、それに服すること。するとそのあり得ないことが必ずなるのだ。

SO BE IT!!!

追記:ザカリヤは挑発的な反論をした。証拠を示せと。このために唖にされた。神や真理に対して挑発的姿勢を見せることは自分に禍を招くのだ。対するマリヤは自分の気持ちを素直に表現した。しかもすぐに御言葉に服した。このふたりの対応の差は学ぶべきであろう。

Page

Access: /Yesterday: /Today: