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TODAY'S CELEBRATION 【Mar 22, 2015】

UPしました。

タイトルアイデンティティーにあるパワー

聖書箇所:ガラテヤ6:15;ルカ17:21;詩篇104:30;1コリント14:32など

3月29日のセレブ

 ・場所:横浜エスカル2F会議室
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship®

アイデンティティーについてはかつてかなり語りましたが、ここへきて新たな地平が開かれている次第。

ポータルが開く鍵-intimacy

イエスは言われた、わたしの名によって求めるものは何でもかなえてあげよう、と。これが実現する鍵は、「わたしの名によって」だ。祈りの最後にあたかも札をつけるように、「この小さき者の祈りを私たちの救い主イエスのお名前によって祈ります」と唱えることでは必ずしもない。その真の意味はintimacyだ。聖霊による主イエスとの交わりが深ければ深いほど、イエスの名によっての実質、サブスタンスが増し加わる。私たちのマインドの有様がキリストのマインドと一致するようになる。

イエスは父との関係において完全にひとつであったから、ラザロの復活のとき、あれだけの大見栄を切ることができた。「父よ、わたしの願いを聞き届けてくださったことを感謝します。いつもわたしの願いを聞いてくださることを知っています」と。この関係を主イエスと私たちに平行移動するとき、私たちの祈りもこれと同じ結果を生む。intimacy-人との関係も同じだが、まして神との関係においては本質的である。

追記:わたしの30年来の花粉症は跡形もなく消えた。毎朝、今日は出るんじゃないかと思っているのだが、本日のような晴天の花粉日よりでも、マスクを外していたが、出ない・・・。うーっむ。

祈り・信はポータルを開く

本日の家族との会話から:

私が、清田君などの超能力者は、スプーンが柔らかくなって、切断される映像が見えるとき、実際にもそうなるらしいよとふると、カミさんが、そうなのよね、包丁でトマトなんか切るにしても、包丁の刃がなまっている時、普通にやるとつぶれるけど、頭の中でサクッと切れたイメージが湧く時って、現実にもきれいに切れるから。何か、この世界に穴があいているところがあって、そこからイメージしたことや祈ったことがすっと入り込んでくる感じがするの。

と、娘も、そうそう、大学受験のときも一時パニクったけど、がむしゃら祈ってるうちに、ふと心に穴が開いて、ホッとして、受かったと思った。そしたらほんとに受かっちゃった。もう一回、同じようなことがあったけど、穴があく感じってわかる・・・。別の娘も中学受験で1次、2次と二度落ちたのだが、その発表の日の晩、電話が鳴ったとき、あ、合格の連絡だとわかったと。そしたらほんとに受かっていた。あの時もそうだけど、そんな時って事前にわかるから不思議。

物理的時空間と霊的領域はすぐ隣り合っている。私たちはそのエッジ、狭間にいて、ポータルあるいはドアとして両方の世界を結びつけている。あたかもドラえもんの「どこでもドア」のように、私たちを通して霊的領域に抜けることができるし、霊的領域の事実(サブスタンス)を物理的に現出させることもできる。癒しなどはまさに二千年前の十字架の事実(サブスタンス)を、今、ここに、現すことだ(実体化)。私たちの祈りあるいは信はこのポータルを開ける働きがあるのだ。私たちの祈りあるいは信を通して、物理的時空間と霊的領域の間にサブスタンスの流れが生まれる。そのポータルが開く瞬間、私たちの心の中ではホッと落ちる感覚がするのだ。祈り求めていたことを「得た」と分かる。まことにヨハネが言うとおりだ:

私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。-1John 5:15

天の門が開く感覚、幸いだ。大胆に祈り求めようではないか。既に天は裂けているのだから(Mark 1:10)。

クリスチャンのアイデンティティー

これもちょうどDr.Kさんが論じておられる。いわゆるキリスト教の理解は、私たちは罪ゆるされただけの罪人であるとする。この根拠にパウロは自分をして罪人の頭であると言っているというわけだ(1Tim 1:15)。が、これは文脈を外している。その前で彼は「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです」と言っている*1。Are you with me?

では私たちは何者か。私たちのアダムにある古い人は主と共に十字架につけられた。それは死んだ、ピリオド。そしてキリストと共に復活した。それはニュー・クリエイション、キリストにある新しい人種なのだ(2Cor 5:17)。それが罪を犯すことはない(1John 3:9)。それはもちろん霊的存在としての私。しかし、この体は依然として古い創造に属するもの。だから御霊によってその働きを無効にしてもらわないで(Rom 8:13)、魂の意志がこの体に従うとき、時々に罪を犯す(1John 1:8)。が、その時には大胆にイエスの血潮に頼れば良いのだ。かくしてクリスチャンとは時に罪を犯す聖徒なのだ。

これを勘違いすると、自責感に苦しんだり、自分を改善するもがきをしたり、いわゆる聖化に邁進するとか、人格を向上させるために精進するとか、自我を砕くとか、いろいろとご苦労様なことをすることになる。しかし、本来の福音は単純。アダム系列の存在は改善の余地がないので抹殺し、キリスト系列に再誕生させ、新しいいのちを吹き込んで新しい創造とする。個々の罪については主イエスの血潮が用意されている。その罪々は過去・現在・未来のものすべてすでに二千年前に十字架で処理されている。告白はゆるされるための条件ではなく、ゆるされていることの適用なのだ。

では、イエスが言われる十字架を負うこととは何を意味するのか。それは繰り返すが、マインドのトランスフォーメーション(Rom 12:2)。自分のマインドにおけるいろいろな想いと御言葉が矛盾する場合、どちらを選ぶのか。先に紹介したヨハネ14:12の解説にあるように、その事実を自分では経験していないので、御言葉を再検討する必要があるとするのは、自分を神とすること。このように自分を正当化したくなるのもマインドの働き。そのマインドを否むこと。このとき、時には神の許容の範囲で打撃を受けたりもする。マインドは無意識の領域と意識の領域があるが、トランスフォーメーションしてくださるのは聖霊ご自身だ。私たちは自分を正当化するのではなく、マインドを明け渡すのみ。できるだけ早く明け渡すに越したことはない。後は聖霊がなして下さる。

かくして

わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。これは主の霊の働きによることです。-2Cor 3:18

最後にこの体が贖われるとき、神の子が完全に出現する(Rom 8:23)。それを全被造物が呻きをもって待ち望んでいる。

参考:JAVAと信仰

*  *  *

ファイル 4819-1.gif

以上の理解はすでに著書でも、サイトでも書いていた。鍵はマインドのトランスフォーメーションにあることも。が、私の『真理はあなたを自由にする』における射程は、あくまでも内的葛藤からの解放という点だった。ところが、このニュークリエーションとしての私たちのポテンシャルはさらに広範囲に及ぶものであると知ることになった。それは神の国を地上に現出させること*2。神から私たちに託された資産・嗣業は、個人的な葛藤の解決といった狭い領域にとどまらず、まさに神の子としての能力を発揮し、神のデュナミスを解放する天の門なのだ。実はこの発見はまことにうれしく、励まされているところ。私自身、これまでもポイントは外していないことを確認出来た上に、さらに広大な霊的領域へと導き入れられたと感じている次第。

*1:一応解説しておくと、このことばの真実性を証明するために、罪人の頭である自分ですら救われたと言うのだ。彼は教会を迫害したが、その事実・行為に関して罪人の頭とするのであり、現在のアイデンティティーについてではないのだ。
*2再建主義の富井氏のこの記事(3月21日)は同意できる。モーセ律法の社会司法への適用やポスト・ミレといった部分では食い違うのだが、サタンを足の下にし、今、ここに神の国の統治を実現させる点ではまことに賛同だ。すでにキリストは天と地のあらゆる権威を得ているのだから。

二心の罠

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。-John 15:7

イエスは答えて言われた。「神の信仰を持ちなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。-Mark 11:22-24

これらの主の約束をマジで受けて、マジで実行しているクリスチャンはあまり多くないと思う。求めるものを何でも・・・って、まさか。自分の願いが神の御心にかなうかどうかも分からないし、そんな都合のよい話がこの世にあるわけない・・・云々。

実はこのようにリーズニングする(理屈をこねる)とき、主のアイデンティティーを深く傷つけている。かなえられない場合に自分が傷つかないように予防線を張る保険は主ご自身と対立しているのだ。肉の思いは神に敵対する、と明確に語られている(Rom 8:7)。私たちの思いは神に敵対するか、トランスフォームされるか、どちらかである。

私たちがこれらの約束に服し、素直に求めるとき、神はこれを喜ばれる。その時、思いにはいろいろの想念が巡ったとしても、心は実に平安と安息で満たされる。こうして自分が主の御心に沿っていることが分かるのだ。後は求めているものが現出する時を大いなる期待と賛美と共に待つだけ。いずれ主の喜びと私の喜びが満たされる(John 15:11)。

新しい創造物とされたクリスチャンの有するうポテンシャルは、私たちの思いを遥かに超える実に大いなるものがあるのだ。

大いなる誤解

あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。-John 3:30

これをして、私たちも衰えるべきであると、私自身メッセージで語ったことがある。今、これをここで主の血により撤回する。ヨハネは旧約の終わり、イエスは新約の始め。この御言葉は私たち、すでにキリストと共に死んで、復活した新しい創造に対して適用されるべきではない。新しい創造はますます栄えるのだ!

愛する者よ。あなたが、たましいが繁栄しているようにすべての点でも繁栄し、また健康であるように祈ります。-3John 1:2

復活した存在、新しい創造を「自我を砕く」と称して十字架につけることはまったく愚かだ。「十字架を負う」ことの意味をとんでもなく曲解しているのだ。かくしてクルシチャンが大量生産されるのだ。鍵は私たちのマインドを新しくすること。現在、古い身体の一部である大脳によって制限されているからだ。十字架を負う実践のもっとも分かり易い形は御言葉を告白すること、御言葉で祈ること。内側が光と力に満ちるのを感じるだろう。

私はすでに新しい創造だ!

と叫んでみてほしい。まことに

肉の思いは死であるが、霊の思いはいのちと平安である。-Rom 8:6

なお、いつものDr.Kさんが同じく指摘されています

ヨハネ14章12節など・・・

ここでも何度も引用しているこのイエスの言葉。

わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。-John 14:11-14

これについては例えば、こちらを見て欲しい。いわゆる聖書の解き明かしをくどくどしているが、果たしてイエスご自身はこのようなことを意図されていたのだろうか?単純に受け取れば、イエスがしていたわざ、つまり悪霊を追い出し、病人をすべて癒し、死者を生かし、ライ病を清めたのだ。

そしてBill Johnsonを批判する人々が指摘する、イエスはあくまでも人としてわざを行ったという点については、悪魔の試みに会ったときも、「もしあなたが神の子なら・・・」と問いかけても、「人はパンだけで・・・」、「ただ神をのみ拝せよ・・・」、「神を試みてはならない・・・」としてあくまでもご自分の立場を人として対応している。ここでもしイエスが神の子として対応されたら、私たちはサタンの誘惑に勝利することはできなかったであろう。人の子としてイエスは勝利を得てくださったのだ。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし・・・-Heb 2:14

またそのわざも次の聖句を見れば人としてなされたことは明らかである。

あなたがたは、ヨハネが宣べ伝えたバプテスマの後、ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった事がらを、よくご存じです。
それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。-Acts 10:37-38

「ナザレのイエス」なる称号がそもそも人としての存在に対するもの。神であるイエスに神が共におられたからとしたら、おかしいだろうに。人のポテンシャルはこれまで私が考えてきた以上のものがあるようだ。そもそも内面も外側も神の形に造られ、神の息吹としての霊を吹き込まれているのだ。堕落以前のアダムは神的な存在と言える。が、罪のため霊が死に、その栄光を失った。しかしイエスは血の贖いにより、その栄光を人間性において獲得された。

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。-1Cor 2:7

かくして私たちの得た栄光は最初の栄光よりもはるかに輝かしいものなのだ。

そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。-2Cor 3:10

私たちの霊は再生され、しかも父・子・聖霊なる神が住まわれる。神の国があるのだ。そこから引き出される価値はどれほどのものであろうか。まことにパウロが祈るごとしである。ここでもマインドが開かれるかどうかが鍵である。

また、あなたがたの理解の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。
神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。-Eph 1:18-21

リスクを負うこと

Bill Johnsonが自分の長いパスター人生において、癒しや奇跡をほとんど見なかった。が、90年代にリスクを負うことを避けなくなってから、それらはいとも簡単に起きるようになったと証している。

下のコンフォートゾーンでも言えることだが、そこに留まる人はリスクを避けているのだ。病気や貧困、あるいはいじめられっ子の立場など、そこにいる限り、自分の予測できるリスクを負うだけでよいからだ。また真理を宣言することを避ける傾向も同じくリスクを避けている。語ることは責任を負うことであり、リスクを背負うことなのだ。そこでリスクを回避するためにしばしば保険をかける。自分は聖書をよく知らないからとか、十分霊的に成長していなからとか、自分のような小さな者の祈りは力がないからとか・・・。要するに二心なのだ(James 1:8)。

イエスは常にリスクを負っていた。ラザロの蘇りの時などは大見栄を切ったのだ。

イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」
そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて、言われた。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。
わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです。」
そして、イエスはそう言われると、大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」-John 11:40-43

さらにこの約束でも大きなリスクを負ってくださっている。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。-John 15:7

私たちもこの約束に答えようとするとき、リスクを負う。もしかなえられなかったら・・・と。しかしここで自分の魂のその思いを否む必要があるのだ。大胆に保険をかけずに求めること。このとき

わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。-John 15:11

内省はサタンの罠である

再建主義の富井氏のこの発言、まことに同意だ。自分がきよいとか、汚れているとか、あれこれ自分をほじくり返しても不毛な葛藤に落ちるだけだ。なぜならもともと肉のうちには何もよいものはないのだから(Rom 7:18)。神は私たちをキリストのうちに置かれ、霊の内にはキリストが住んでくださっている。神の子はこの信、すなわちサブスタンスに生きることだ。

tomi 2015/03/18(水) 08:11

内省はサタンの罠である

外国に行くと日本が優れた国であるとわかる。

しかし、若者の満足度、充実感が最低だという。

むしろ殺人・強姦だらけの南アフリカのほうが幸福感が高い。

これは、単に外部環境では人間の心が整わない好例だと思う。

サタンは甘くない。

すべての環境が整い、裕福に暮らす人々の心の中に入ろうとする。

入ってめちゃくちゃにしようとする。

戦争の中にいていつ死ぬかわからない人の心を破壊するのと、平和と幸福な社会で、自由にものが手に入り、仕事があり、お金がある社会に住む人の心を破壊するのとどちらが簡単か。

後者だ。

われわれは、外部に問題がないと、内面や自分を見つめる時間が増える。

自分に気を取られることがどれだけ恐ろしいことか。

際限のない内省という泥沼に入る。

われわれは、外部に働きかけるために生まれてきた。

神がエデンの園に人間を置いたのは、内省するためではなく、「園を管理し、畑を耕させるため」である。

内面を見つめることが主ではない。

外部を改革していくことが主である。

それが正しい道である。

内省に時間を使っている人は、神の命令に違反しているので、破滅するのだ。

それ用に作られていない機械を、そのために使えば壊れる。

たとえば、地上を走るために作られた車を、船として使用したらすぐにダメになる。

内面を見つめるために時間を使っている人は、神の目的と違うことをやっているので壊れるのが当然なのだ。

だから、われわれは仕事を作って、それに没頭しなければならない。

エデンの園を拡大し、神の支配を拡大するために時間を使わなければ健全になれない。

内省は、サタンが仕掛けた罠である。

サタンにとって、われわれが外部に働きかけることが何よりも怖い。

たとえば、今、私は英文で南京大虐殺や慰安婦の矛盾点を指摘する文章をどんどんといろんなところに貼り付けている。

それに対して、対応は当初激しい抵抗があったが最近はなくなってきた。

われわれが反論しなければ、中国や韓国の中傷はどんどん広まって、世界は彼らの意見を採用する。

そうすれば、われわれは性奴隷を国ぐるみで行い、30万人の民間人を大虐殺した極悪民族ということになるのだ。

日本人が、一つ一つ反論していかないとこのような趨勢は変わらない。

内面にこだわっている場合ではないのだ。

サタンはわれわれが活動すると負けると知っている。

だから、内省に向かわせたいのだ。

労働の力がない人は、祈ってほしい。

祈りは、世界を大きく変える。

サタンの力を封じ込めることができる。

とにかく内面を見ることをやめて、外に向かって働きかけるならば、満足感や幸福感、自信とか、そういう悩みは雲散霧消する。

預言者の霊

預言者の霊は預言者に服従するものである。-1Cor 14:32

この御言葉はすごい。預言者の霊(複数形)とは何か?もちろん聖霊の(現れ)こと。Vincentはこう解説する:

The movements and manifestations of the divine Spirit in the human spirit, as in 1Co 12:10.

私たちが癒しの言葉や知識や知恵の言葉を語り出すとき、聖霊は私たちの意志に服されるのだ。もちろん、いわずもがな、聖書の御言葉の原則に反しない限りであるが・・・。ゆえに私たちはサブスタンスに触れたら、すなわち信を得たら、語り出すこと。あるいはその自覚がなくとも、御言葉をdecree(法的効力の宣言)すること。これで一つの霊的任務が完結するのだ。ただ恵みを受けて気持ちよくなりたいだけの人もいると思うが、私たちは祭司であり預言者。そして王として権威を行使する必要があるのだ。まことに

「わたしは信じた。それゆえに語った」としるしてあるとおり、それと同じ信仰の霊を持っているので、わたしたちも信じている。それゆえに語るのである。-2Cor 4:13

神は「XXよ、あれ」と言われた、するとそれはあるようになった。この原則は私たちも適用されるのだ。しばしば魂(特に思い=マインド)ががんじがらめになっている人は言葉を発せない。敵に縛られたまま、その中で生きることに慣れてしまっている。彼らにとっては奴隷解放宣言が発効しているのに、あえて奴隷状態でいる方が楽なのだ。人はしばしば貧困・病気・困難・弱さ・自己憐憫など、ネガティブな状況にあえて留まるものだ*1。彼らにとってはそこがコンフォート・ゾーンになっている。だから主イエスは盲人に対して、「あなたはわたしに何がしてほしいのか」とか、「治りたいか」と質問された。その「治りたい」という意思表示が癒しあるいは解放への第一歩なのだ。

クリスチャンよ、語れ!

*1:この時に正当化のためによく使われるのが、イエスは病人を招くために来たとか、健康な者に医者は要らないとか、彼は弱者に寄り添ったとか・・・。これらは自己憐憫の投影に過ぎない。イエスは決して同情はしなかった。あわれんで、その状態から解放されたのである。

サブスタンスをつかむ

よく自分の信仰を云々する向きがある。自分には信仰があるとかないとか。あるいは自分が信仰によって何かを頂ける人間ではないとか、小さなものに過ぎないとか。あの人の信仰は偉大とか、純粋とか・・・。メッセも語ったがみな自意識過剰だ。

実は信仰はそのようなこととは一切関係がない*1。信仰、もっと正確には信(pistis)とは実体(hupostasis)、サブスタンスだからだ。それは私とは関係なく存在する。そのサブスタンスそのものが信なのだ(Heb 11:1)。世界はそのサブスタンスがframe化されたもの(Heb 11:3)。肉の目には目の前の事実がサブスタンスよりも現実感を伴う。それがリアリティだと思っている。しかし主の目にはサブスタンスの方が現実よりもリアルだったのだ。だから五つのパンで五千人を養うこともいとも容易いことだった。私たちも霊の目が開けると目の前の事象よりもサブスタンスの方がよりリアルになる。天のポータルとして霊的領域のサブスタンスにアクセスし得る能力を得ている。キャッシュ・ディスペンサーのように、そこからいくらでも天の富を引き出せるのだ。

サブスタンスに触れたとき、私たちは願っていたものを「得た」と分かる。たとえ、目の前にはまだ存在していなくても。くどくど長たらしく祈る必要もない。ふっと霊を開けば良いのだ。神の国は、今、ここに、あるのだから。キリスト教のあれこれのややこしい教えの体系を捨て去れば、見える。私たちは内側に神の国を得ている新創造だ。天の父はわたしの持っているものはすべてあなたのものだと言われる。御子イエスは私たちが彼とおなじ業、さらにもっと大いなる業をなすと約束された。聖霊はそのことを地上に現出させ、実際に行われる。Pete Cabreraはこの内なる存在はhuge、humongousだと言っている。

まことに私たちは神の国のパワーポイントなのだ!

*1:よく自分の"信仰"に信仰を置くミスを犯す傾向がある。私たちの信はサブスタンス。自分の"信仰"を見ていると罠に落ちるのだ。「それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にあって立つのではなく、神の力にあって立つためでした」-1Cor 2:5。

ペテロとパウロのわざ

福音はこの頃と変わってしまったのだろうか?

ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。-Acts 5:15-16

神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。-Acts 19:11-12

それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。-1Cor 2:5

使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。-2Cor 12:12

回答:もちろん変わっていない。問題はいわゆるキリスト教にあるのだ。デュナミスを抜いて、聖書の中での言葉遊びになってしまった。ご本人が不在なのだ。が、これからのシーズン、死者も生き返ることを目撃するだろう。

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