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ペテロとパウロのわざ

福音はこの頃と変わってしまったのだろうか?

ついに、人々は病人を大通りへ運び出し、寝台や寝床の上に寝かせ、ペテロが通りかかるときには、せめてその影でも、だれかにかかるようにするほどになった。また、エルサレムの付近の町から、大ぜいの人が、病人や、汚れた霊に苦しめられている人などを連れて集まって来たが、その全部がいやされた。-Acts 5:15-16

神はパウロの手によって驚くべき奇蹟を行なわれた。パウロの身に着けている手ぬぐいや前掛けをはずして病人に当てると、その病気は去り、悪霊は出て行った。-Acts 19:11-12

それは、あなたがたの持つ信仰が、人間の知恵にささえられず、神の力にささえられるためでした。-1Cor 2:5

使徒としてのしるしは、忍耐を尽くしてあなたがたの間でなされた、あの奇蹟と不思議と力あるわざです。-2Cor 12:12

回答:もちろん変わっていない。問題はいわゆるキリスト教にあるのだ。デュナミスを抜いて、聖書の中での言葉遊びになってしまった。ご本人が不在なのだ。が、これからのシーズン、死者も生き返ることを目撃するだろう。

日々キリストにありて

ファイル 4806-1.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです(詩篇25:5)。

 次の5つのあなたへの質問は、方向を変えるときあなたの助けとなる神の意志に関するものです。
6.それは理性的ですか?神は私たちに考えることを求められます。神の導きは人の考えを超えていますが、決してそれを排除しません。神は私たちの思いをバイパスしません。それを通して働かれます。「兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい」(1コリント14:20)。聖書では私たちの思いをニュートラルにしてはならないと警告していませう。真実であることは何か、私たちは考え、また実行するのです(ピリピ4:8,9)。
7.現実的機会がありますか?閉じられたドアはノックしてぶち破るのではありません。もし希望のない計画であるならば、手放しなしなさい。それが神のタイミングでなければ、待ちなさい。現実的な機会があれば、またその他のすべての要素が噛み合うならば、一歩を踏み出しなさい。神は機会の窓を開いてくださるでしょう。もし機会ではないのならば、それは閉じられるでしょう。信仰のない人は尋ねます、「もしそうして失ったらどうするのですか?」と。信仰のある人は言います、「もししないでいたら、失うリスクをどうしますか?」と。
8.偏りのない、霊的に繊細な同意が伴いますか?あなたに賛成の人々にだけ助言を得ることは避けてください。きつい質問でも受けるべきことを助言者に告げなさい。「ノー」という回答を恐れないように。もし神の意志でないならば、衝動的な動きをしてミスを犯す前に知りたいと思いませんか?
9.私は捧げる願いがあるか?神の意志に従うことは常に好ましくない仕事であると考えないように。主を喜ぶことが私たちの力です。私は神に仕え、その御心にあることが最高の喜びであると知っています。しかし、神の意志に服することがすべて素晴らしいことであるとは考えないように。それが肉の欲を満たすためなのか、神の国が設立され、人々が助けを受けるための御霊に満ちた願いなのでしょうか?
10.それに平安を感じますか?これは内なる平安です。あなたの心と思いを神の平安が覆っていますか?
これらの10点についてすべてイエスと回答できれば、もう待つべきではないでしょう。

 感謝します。私はあなたに小さい点にまで信頼し、今日のあなたの導きを受けます。

TODAY'S CELEBRATION 【Mar 15, 2015】

UPしました。

タイトルあなたを神とする、統治せよ!

聖書箇所:マルコ1:10-11;出エジプト7:1;箴言18:21;ヨブ22:28;2コリント4:13など

3月22日のセレブ

 ・場所:横浜技能文化会館(OA研修室603)
 ・時間:1300-1700
 ・Web:Kingdom Fellowship®

ご注意:ちょっと衝撃的なタイトルをあえてつけましたが、「神になる」のではありませんので、よろしく。

裂けた天

今朝の明け方から数時間にわたって味わった天の感覚は素晴らしかった。言葉では形容できない。なんなのだ、これは???

そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」-Mark 1:10-11

この「裂けて」の原語は"schizō"、スキゾフレニア(精神分裂病)のスキゾだ。天が裂ける!?そう、イエスが公のミニストリーに入る時、それまで人類に対して閉ざされていた天が裂け、御霊がこの地上に介入された。そのイエスは御父の最愛の子、喜びであった。ここでのポイントはこうだ。イエスは天と地をつなぐはしご、天の門(ポータル)、その上に天使が上り下りする(John 1:15)。そして私たちはそのイエスの内に置かれたのだ!

かくして神は私たちを見ない。イエスを見ている。これが私たちの得た祝福。神は私たちをご覧になるとき、あなたはわたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶと言われ、満足されるのだ。神の満足がそのポータルを通して私たちに伝達される。祝福とは私たちの霊に反映される神の満足だ。このゆえに私たちは神の歓心を買うために努力したり、もがく必要はない。私たちはすでに天の門、天使が上り下りし、地の祈りを天にもたらし、天のサブスタンスを地に届ける。

天はすでに裂けている。裂けたままである。その裂け目を通して天のもろもろの祝福が私たちに流れ込む。なぜなら

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。-Eph 1:3

すでに祝福してくださいました!現在完了形。つまりそれはすでになされ、今だに継続しているのだ。私たちはすべての霊的祝福を受けている!これが天の霊的領域におけるサブスタンス。これを自分の経験にするのが信(faith)なのだ。アグレッシブにそれを味わおうではないか!

サブスタンスと物理的時空間の狭間で

下で紹介したビデオで霊的領域(spiritual realm)を見た時、サブスタンスに満ちていたと語っている。まことにこのサブスタンスが物理的時空間に現出する作用が信仰(一応通常の言い方で)だ。よってヘブル11:1(Heb 11:1)をある英訳では"substantiation(実体化)"と訳している。

私も12月に見た世界でいくつかのサブスタンスを見た。そして声を聴いた。その中のひとつが「癒された」だ。「えっ、何が?自分は別に病気はないけど・・・」と感じたのだが、その後右耳の難聴が癒され、腰の神経障害による右足の麻痺が癒され、今回、30年来の花粉症が癒された。特にこの花粉症は自分でもすでに自分のアイデンティティーの一部にしていた程なので、まさか・・・、と今だに半信半疑なのだ。どこか他人事のように、うれしいとも感じられず、実感が湧かず、ただ花粉症が出ない事実だけを確認している。あの「癒された」はどうも包括的な癒しであるようだ。しかし、何か騙されているようなふわふわした感覚が伴うのだ。

何をしたかというと、「イエスの名によって、IgE抗体よ、花粉に反応するな。ヒスタミンよ、分泌されるな。免疫系よ、過敏に反応するな」と命じたのだ。以前の私であれば、「馬鹿らしい」と・・・。このように信仰によって語り出す言葉にパワーがあるとする立場をWord of Faith Movementと呼ぶ。そしていわゆるリベラルや福音派系の人々からは異端だとか、カルトだとか、ニューエイジだとか断罪されている。始祖はケネス・ヘーゲンとされる。

根拠は、要するにイエスは言葉を語り出すことによりすべての病気を癒し、悪霊を追い出し、死者を蘇らせた。イエスは、「わたしの言葉(レーマ)はいのちであり、また霊である」と言われた(John 6:63)。そして「信じる者もイエスと同じ業、さらに大いなる業をなす」と言われた(John 14:12)。ゆえに私たちも言葉を語り出すことによりイエスと同じ業をなし得るわけだ(2Cor 4:13)。

ここで批判者たちは、それではクリスチャンが「小さな神」になるではないかと指弾するのだ。イエスは神だからこそ、あのような業がなし得たとしているからだ。ところが御言葉にはこうあるのだ:

それは、ナザレのイエスのことです。神はこの方に聖霊と力を注がれました。このイエスは、神がともにおられたので、巡り歩いて良いわざをなし、また悪魔に制せられているすべての者をいやされました。-Acts 10:38

ここでは明らかにイエスは人として業を行ったと読める。すると私たちも聖霊と力を注がれ、神が共におられるならば、同じことができることになる。まして、イエスはご自分が父のもとに行くゆえに、同じ業、さらに大いなる業をなし得ると約束されている(John 14:12)。

かくして、私たちの言葉がイエスの言葉と同様に働くためには、信仰は希求する事柄のサブスタンスであるとあるとおり、そのサブスタンスを語り出す必要があるのだ(2Cor 4:13)。そのとき、見えないそれがあばかれる(prove)、つまり時空間に現出する(Heb 11:1)。これがヘブル書の解くところだ(Heb 11:3)。

私はこうして自分の経験を御言葉で根拠づけているわけ。そうしないと、事実が先行しているために、どうにもふわふわと落ち着かないのだ。現実として確かに癒されているが、自分に何が起きているのだ???これも何かの欺き、フェイク、トリック???その他にも見えたサブスタンスがいくつかあるが、まだその意味もよく分からず、実現していないものがある。Bill Johnsonの本にこうあったのだが、少なからず安心感を得ているところだ。

The walk of faith is to live according to the revelation we have received, in the midst of mysteries we cannot explain.

信仰の歩みは、私たちが説明できない神秘の真っ只中で、受けた啓示に従って生きることだ、と。これは目に見えるところによらず歩むことで(2Cor 4:18)、ある種の緊張感と困惑感を伴うのだ*1

*1:自分のマインドのに適合しない現象には基本的に拒否感や緊張感を覚えるのが人だから。Bill Johnsonらは腕の中の骨をつなぐ金属が骨に変化する現象を当たり前と感じているのだ。数百例も経験しているとのことだ・・・。うーむ

神の領域に触れること

それは人間にとっては怖いこと。古の聖徒たちは神を直接見てしまったとき、みな恐れに囚われ、自分はもうダメだ!と叫んでいる。モーセ、ヤコブ、ギデオン、イザヤ、ダニエルなど、みな自分の無力の中に沈み込み、自分は終わりだ、と叫ぶのだ。新約のパウロも同様であろう。彼は打ち倒され、盲目にされた。神と直接出会うことはまことに自分の終焉。究極の無力感。まことに主の御手に落ちることは自分自身の終わりなのだ。が、神の手から彼らの中に確実に神のデゥナミスが流れ込む。パウロが言うとおりだ。

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました。-Eph 1:19-21

追記:この人の証は興味深い(→Video。開けないときはこちら。)。

ファイル 4804-1.jpg

ソ連時代にモスクワで伝道し、TVステーションも創立した。現在も3700人のメンバーの教会を運営している。その召命の時、天使とイエス自身の訪れを得て、霊的領域を見ている。その世界についてこう言っている:Now the spirit realm has substance.霊的領域にはサブスタンスがあったと。詳細にその見えた光景を証している。うーむ、似ているかもだ。

神の子となること

電気屋さんのコメントにある「神の子は神」に触発されて、ちょっと検討してみたい。

アダムは吹き込まれた神の霊によって生きる魂とされた(Gen 2:7)。が、その霊は罪のために死んだ(Eph 2:1)。イエスを信じた私たちは神の子となる権利を得て(John 1:12)、霊が御霊によって生まれた存在だ(John 3:5-6)。その霊の中には聖霊が住まい(John 14:16)、同時に御父と御子が住まわれる(John 14:23)。こうして三にして一なる神が私たちを住まいとする(Eph 2:22)。この意味で私たちの霊は神に由来し、神のいのち(ゾーエ)を得て、神的な存在あるいは神の子と言える。神の新創造(a new creature)である(2Cor 5:17)。

一方、魂(思い・感情・意志)は旧創造に属する体の大脳とシンクロして働き、アダムにあった頃の罪の痕跡・傷などを受けている。そのため、霊の内なる神が魂を通して十分に表現されない。特に思い(マインド)が真理を拒絶し、神に敵対することが多い。よって栄光から栄光へと御子と同型化されるためには(2Cor 3:18)、マインドがトランスフォームされる必要がある(Rom 12:1-2)。このトランスフォームの原語は"metamorphoo"であり、変貌の山で主が変貌されたのと同じ単語だ。神の栄光を現すためにはトランスフォーメーションが必要なのだ。そして肉体についてはもろに旧創造であり、これはかの日に瞬時に変えられる(1Cor 15:51)。これが神の子たちの現れ、究極の望みである(Rom 8:19)。

このように見ると、私たちの霊は神的存在であり、神ご自身が住まわれている。が、この霊を神と呼ぶことは極私的には抵抗がある。ウイットネス・リーなどは魂の造り変えを「人が神になること」としている*1。ただし、神格においてではなく、いのちと性質においてであると留保しているが。カトリックでは「受肉の延長」なる神学があり、神化と称する。東方ではもろ神化である。キリストは二性一人格とされ、そのパースンは父の懐のいた御子そのものである。私たちはそのお方と同型化される過程にあり、いずれ直接にお会いするときにはイエスに似る者とされるとある(1John 3:2)。「似る」は"homoios"であり、Strongによると"similar"である。つまり魂は御子のパースンそのものとされるわけではない。性質を共有するのだ。あえて「神になる」と表現する必要はないであろう。

しかしながら、内なる神が語る言葉を私たちのマインドが把握して、私たちの口から語り出すとき、それは神のレーマを語り出すことになる。ゆえにその言葉は何かをなし得るのだ*2。癒し、しるし、不思議、奇跡などを。私自身が自分の免疫系にイエスの名によって命じることによりこれを経験し、今や30年苦しんだ花粉症が跡形もなく消えた。さらには切断した指が再生されるとか、いわゆるcreaive miracleが報告されている。あるいは歯のクラウンが金に変わるとか。この種の話はかつての私は敬遠していたものだが・・・。この意味でクリスチャンは神的能力を得ている。事実、使徒行伝ではそのような証が満載であり、パウロのハンカチやペテロの影に触れるだけで病人が癒されていたとある。

ナチュラルとスーパーナチュラルの関わり。これは実に興味深い。ナチュラルな世界の法則を一旦停止して神が介入されることが奇跡である。対して癒しはすでに成し遂げられた十字架の業を適用することだ。もちろん聖霊が働いてくださるわけだから、これも神の介入があると言える。リベラルや高等批評などの立場ではとても認められないことであろう。私は別にカリスマ派や聖霊派を名乗っているわけではなく、あくまでもサイエンティストの立場から追求しているところなのだ。が、とにかく花粉症が消えている事態には、ある意味、自分自身でも困惑を覚えている。え!?何が起きたわけ?と・・・。

*1:一部のカリスマ系の人々もクリスチャンは「小さな神(little god)」であるとして、異端あるいはニューエイジ系とされている。Bill Johnsonなども同様に批判されている。
*2:このような理解と実行をWord of Faith運動として、一部の人々は異端だと断罪している。

DOMINION

今朝、与えられた言葉だ。最初のアダムと最後のアダムにして第二の人であるイエスについてはDr.Kさんがちょうど書いておられる。最初の人アダムは

われわれのかたちに、われわれに似せて人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。-Gen 1:26

主なる神は土のちりで人を造り(=body)、命の息をその鼻に吹きいれられ(=spirit)た。そこで人は生きる魂(=soul)となった。-Gen 2:7

と創造された。つまり外的にも内的にも神の様を持ち、さらに神の霊を吹き込まれた存在。その時点でアダムはすでに神的な存在とされていた。神はこの時空間にご自身のような存在を置かれたのだ。ご自分を目に見える形として表現され、かつ全被造物を治める代理権威を与えた。いわばご自分の像であり分身だ。これが第一の人アダムであった。「治める」とある原語は"râdâh"、英語ではdominion、すなわち統治・支配である。しかし彼は失敗した。

そこで神のロゴスなる御子、つまり神のサブスタンスがマリアの胎に宿り(Heb 1:3)、肉体をとって地上に現出された(John 1:14、ここの原意は「幕屋を張った」)。彼は神であり、人である存在。が、あくまでも人として地上を生きられ、ご自身のアイデンティティーをその言葉と業によって証明され*1、最後のアダムとして十字架につけられた。その尊い血を流し、最初の人アダムの失敗と罪を贖い、旧創造を終わらせた。そして復活した。第二のアダム、復活の初穂として。かくして最初の人アダムが失ったすべてを贖われ、信じる者は神の国に霊によって誕生させ、そのうちに神が住まいを得られ、ご自身の得たすべてを嗣業として与えられた。私たちは新しい創造、十字架以前には存在していなかった種である。つまり私たちは最初の人アダム以上の存在なのだ。

神はモーセをパロに対して神(=Elohim)とされた(Exo 7:1)。パロはこの世の君、サタンの型であり、モーセは解放者キリストの型である。同時に私たちの型でもある。私たちキリストの復活のいのちを得ている存在はサタンに対して神とされているのである。クリスチャンはしばしばサタンを恐れるが、事実は逆。サタンはこの真理に目覚めさせないように偽りによってクリスチャンを拘束している。クリスチャンは天使をも裁く存在だ(1Cor 6:3)。われわれが霊から語り出す言葉は内なる神が語る言葉、レーマである。この言葉は霊であり、いのちであり、統治する権威を帯びている。私たちが信によって語り出すとき、霊的領域のサブスタンスがこの時空間に現出する。かくしてわれわれは神的能力を有する存在なのだ・・・。

と、ここまで語ると、そろそろ魂的な人のマインドは耐えられないと推測される(1Cor 2:14)。Dr.Lukeはやばいことを言い出したと言われる頃合と思われるので、一旦筆を置くことにしよう*2

*1:これは私たちの模範でもあった。彼の業、それ以上の業を私たちがなすために(John 14:12)。
*2:神が人になった、などの言明もノンクリスチャンには相当にやばいものだ。クリスチャンにとってはある意味当たり前なのだが、逆にこれが当たり前としてスルーされてしまう点がやばい。受肉の奥義はまことに深い。

チェックリスト

12月に見せられ、聞いた事柄のうち、「癒し」については確実に実現している。右耳の難聴、右足のマヒがきれいに癒され、ここへきて30年来悩まされた花粉症がまったく出ない。不思議なくらいだ。今年は多めと聞いて覚悟していたのだが・・・。

その他の事柄のうち、これが実現したら・・・というものが残されている。これが実現したら、実にヤバイ(念のため、マーヴェラス・ファンタスティック・グレイトの意味なのでよろしく)。まことに映画のいくつかのシーンのようなあの光景群は私の脳裏にヴィヴィドに残されている。それと声もだ。

信とはサブスタンス

われわれが関わる世界はふたつある。一つはこの物理的時空間。空間と時間と物質から構成されている。それは自然科学によって見い出された諸法則により支配され、五感によって知覚(実体化)される世界。これはナチュラルな領域。もうひとつは霊的領域。スーパーナチュラルな領域であり、神的領域である。この世界の存在が実体、サブスタンスと言われる(Heb 11:3)。キリストは神の本質の完全なる現れ(Heb 1:3)。この本質とはサブスタンスだ。キリストは神の信によりこの物理的時空間にサブスタンスが現出された存在である。ヨハネが証しするとおり、目で見て、手で触れる存在として。決して仮現論にいうような存在ではない。神がこの時空間に直接介入されたのだ。ゆえに受肉そのものがスーパーナチュラル。今やキリストが私たちの内にいますなどはもちろんスーパーナチュラル。

もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。-Heb 3:14

この「確信」と訳された原語はサブスタンス。つまり私たちは神のサブスタンスを持っている存在なのだ。サブスタンスをゲットし、この時空間に現出させる機能が信(faith)である。神はご自身の言葉に応じてfaithすることを喜ばれる(Heb 11:1;11:6)。だから次の御言葉に従って、大胆に求めようではないか。祈りが叶うとはすでに得ているスーパーナチュラルなサブスタンスがナチュラルな領域に現出することだ。

あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます。・・・
わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。-John 15:7-11

シーズンからシーズンへ

12月に主が言われた、「この3ヶ月ですべてが変わる」と。それからあの事件が起こり、自分がおかしくなったのかと思った。何を見たのか、聞いたのか?あれは妄想か、幻覚か、それともリアリティか。少なからぬ困惑を覚えて、ここまで御言葉との照合に明け暮れた。その間にいろいろな癒しを経験した。また主の霊の深いタッチと同時に、魂のマインドはこれまでのフレームを逸脱する事態に揺れ動き、正直かなりの葛藤と不安も覚えた。Bill Johnsonの経験が自分の経験ときわめて類似している事を知り、彼の本も2冊ほど読んでみた。現れている現象はこれまでの私のマインドをはるかに逸脱しているが、言っていることはしごくまともであり、要するにマインドを御言葉に服させることだ(2Cor 10:4-5)。この時信仰を用いることが容易になると・・・。

最近、ようやく人心地付けるようになってきたかもしれない。あれは主からの啓示であったのだと内側に確信が強まってきたところだ。祈れば祈るほど平安と安息が増し加わるのが分かる。それにしてもパウロも第三の天に上げられて、人が聴くことが許されない言葉を聞き、直接啓示を受けたとある(2Cor 12:2-5)。彼はその内容については語っていない。ただ、素晴らしい啓示だとしか*1。彼はそれを書けなかったのだ。私もとても人には言えない。おそらく14年後でも語れないと思っている。私も「人としてのシーズン」は終わった。これからはスーパーナチュラルな「ニュー・クリーチャーとしてのシーズン」に入るのだろう*2。これは神の配剤なのだ。

To every thing there is a season, and a time to every purpose under the heaven:-Eccl 3:1

追記:どうも私の花粉症は完全に消滅してしまったようだ。

*1:彼はそれゆえに誇ることがないように、肉体のとげ、つまりサタンの使いを送られたとあるが、これはよく言われているような病気のことではない。「とげ」という単語はしばしば「敵」の意味で用いられている(Num 33:55;Josh 23:13)。それはサタンの使いなのだ。10節を見ると、キリストのために・・・に甘んじているとあるが、このリストに病気はない。もし弱さを病気のこととするならば、「キリストのために病気に甘んじている」と意味不明な発言になってしまうのだ。聖書は聖書によって解する原則に則る必要がある。
*2:timeは物理的なもの、seasonは神の導きによるある時節、そしてそれらは天の下のpurposeに資するのだ。

神の御心-いのちと統治

アダムには地と天における生物を治めることが命じられ、その権威を与えられた(Gen 1:26)。しかし彼は失敗し、権威を失った。時至り、最後のアダムとしてイエスが十字架で旧創造を終わらせ、復活により第二のアダムとして血によって贖ったその権威をわれわれエクレシアに与えられた。

また、わたしたち信仰者に対して絶大な働きをなさる神の力が、どれほど大きなものであるか、悟らせてくださるように。
神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせ、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置き、今の世ばかりでなく、来るべき世にも唱えられるあらゆる名の上に置かれました
神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。-Eph 1:19-22

そして命じておられる、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(Mark 16:15)。この造られたもの(Gk.ktisis)とは人間だけではない。全被造物のこと、英語では"every creature"である。すなわち、エペソ書にあるとおり、キリストはすべてのものを足の下に置いたのである。全被造物は呻きをもって神の子の出現を待っている(Rom 8:22)。一言で言って、福音とはイエスの御名の下に服させることだ。ゆえにわれわれは自然界をも統治する権威を有していることになる。これが下にある竜巻にイエスの名をもって命じる根拠である。ガンに対しても、花粉症に対しても、腰痛による足のシビレに対しても同様。

神の国はいのちと統治とかねてより言ってきた。いのちの面は相当に追求もしたが、統治の面は最近ようやく実際的に開かれてきた。われわれは新しい創造物、New Creatureであり、キリストと共に天に座しており、すべてのものを統治する権威を有している。クリスチャンのポテンシャルは計り知れないものがあるようだ。

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