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イスラエルとユダは日本において統一した

といつもの再建主義の富井氏が。

tomi 2015/02/12(木) 14:33

日本の真の解放は聖書信仰に立つ以外には実現しない

(1)
旧約聖書の予言つまり大イスラエルはキリストにおいて成就しました。
「わたしには天地において一切の権威を与えられた」とありますので。
「まだ成就していない俺たちが成就する」と言っているのがロスチャイルド。
ロスチャイルドは、南北イスラエル統一王朝を復活させようとしている。
紋章にそれぞれ南イスラエルと北イスラエルの象徴である「獅子と一角獣」が含まれているのがその証拠。
実は、皇室のマークが同じ「獅子と一角獣」。
これは、日本において南北統一王朝がすでに成就していることを示す
日本は真正メシア・キリストの国であり(これはイルミナティ側の代表レオ・ザガミも認めている)、それなるがゆえに偽メシアを擁立しようとしているイルミナティ・ロスチャイルドは日本を潰そうとしている。

うーーむ エゼキエルのこの預言はすでに成就していると・・・。

わたしは、エフライムの手にあるヨセフの杖と、それにつくイスラエルの諸部族を取り、それらをユダの杖に合わせて、1本の杖とし、わたしの手の中で1つとする。・・・私がイスラエルの山々で、1つの国とする時、ひとりの王が彼ら全体の王となる。彼らはもはや2つの国とはならず、もはや決して2つの王国に分かれない。-Eze 37:19-22

「イスラエルの山々」とは日本列島なのだろうか まあ、彼のパーシャル・プレテリズムによれば、黙示録の20章まではすでに成就しているわけだから・・・・。

注:引用聖句をよりて適切な個所に変更しました。

問題に直面する時

しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことば(logos)をいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」-Matt 8:8-9

主がロゴスを語り出すとき、レーマとなる。

イエスは答えて言われた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことば(rhema)による。』と書いてある。」-Matt 4:4

問題や困難に直面するとき、自分の罪や失敗、さらに病気や事故などに陥るとき、もがいたり焦ってはならない。私たちがなすべきただ一つのことは、あれこれの方策ではなく、レーマを聴くこと。レーマを聞けば事態は瞬時に変わる。ゆえにイザヤ書にこうあるのだ:

神である主、イスラエルの聖なる方は、こう仰せられる。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」-Isa 30:15

加えて私たち自身も自分の状態や状況に神の言葉をもって命じるのだ、「山よ、動き出して海に沈まれ!」と。あらゆる困難や病気は神の言葉のパワー(デュナミス)を知る機会となり、神の栄光になるのだ(John 11:4)。

神の信仰とこの世

朝風呂でまたあの現象が起きた。何も見えず、聞くこともなかったが、ボディは完全に支配された。昨日、聖霊に「あること」を求めたが、その回答だ。

レーマによりこの世界をあらしめた神の信仰は、すでにすべてを見透している。黙示録の世界は神にとってはすでに成就している世界。その神の信仰に参与しているのが私たち、神の子だ。これってちょっとヤバイ。そして神はあえてこの世*1のいわゆる知識や常識とは外れることをあえて語り、あえて行うお方。ある意味、神の聖なる自己主張とも言うべきだ。海を割り、太陽を天に止め、また戻し、岩から水を生じさせ、ロバに語らせ、人が水面を歩き、死人が起き上がる。神は善悪を知る知識の木の実を摂った人類に対して、あえてチャレンジしているかのようだ。逆に言えば、神の御心をとらえる秘訣はここにある。

そして、こちらの側としては、レーマを聞いたり、幻を見たら、おしまいだ

*1:養老孟司氏に言わせれば、世は人間の脳が作り出したもの。つまり人間の信仰の実体なのだ(cf.Gen 11:6)。

信仰の由来

年老いたアブラハムとサラは神から子供ができると聞かされたとき、共に笑った(Gen 17:17;18:12)。彼らの魂の思い(mind)はその告知を受け入れることができなかった。なぜ?地的な常識あるいは知識に反するから。しかるに、へブル書にはこうある:

信仰によって、サラもまた、年老いていたが、種を宿す力を与えられた。約束をなさったかたは真実であると、信じていたからである。-Heb 11:11

ここでポイントは、神の言葉(レーマ)を聞くとき、思いは必ずしもその内容を納得することはないのだ。「はあっ?」という反応がほとんどであろう。それはぶっ飛んでいるから。が、信仰はそこにあるようになる。なぜなら、神が語ったから。神が「光よ、あれ」と語ると、光があったのだ。それは私たちが納得するとか、私たちが改めて信じるとかの問題ではない。この点、使徒行伝で、ペテロとヨハネが美しの門にいた足萎えを癒したとき、こう証している:

ペテロはこれを見て、人々にむかって言った、「イスラエルの人たちよ、なぜこの事を不思議に思うのか。また、わたしたちが自分の力や信心*1で、あの人を歩かせたかのように、なぜわたしたちを見つめているのか。-Acts 3:12

つまり、その癒しは彼らの何かによるものではないというわけだ。信仰は聞くことから、聞くことは神の言葉(レーマ)によるとロマ書はいう(Rom 10:17)。この部分を、聞いてから何か信仰を「生み出す」と解する向きがあるが、これは意訳の結果だ。原語では

αρα η πιστις εξ ακοης η δε ακοη δια ρηματος θεου

「よって その信仰 から 聞く その また 聞く 経由 レーマ 神の」となる。サラの場合も「聞く即信仰」だったのだ。私たちの思いがどうのこうのは関係ない。神の声を一旦聞けば、それはどうあがいても否定しようがない。あとはそれに従うだけ。するとその実体が現出するのだ。

問題は思いがトランスフォームされていないと*2、御言葉自体もスルーしてしまうし*3、神に聞く姿勢も起きない。さらに思いが聞いたことばをあえて拒絶するならば、もちろん従うこともない。ゆえに実を得ることはできない。あるいは思いが自分のことや何か特定のことでイッパイ・イッパイの場合、霊は抑圧され、聖霊の働く余地がない。感情も同じだ。そこで一度、魂が死ぬ*4必要があるのだ。

*1:この原語は"eusebeia"、ふつう「敬虔」と訳されている(1Tim 3:16)。
*2:しばしばレーマを得てからその現出までにタイムラグがある場合が多い。この間に私たちの思いは揺れる。自分の聞いたことが勘違いだったのではとか、思い込みだったのかとか。あるいはある種の待ち時間が必要となるのだ。私たちの魂は待つことが苦手なのだ。
*3:最近、スルーしていた御言葉が次々に出現している。
*4先に述べたように、魂の諸機能が機能停止することではない。凝り固まった魂のエネルギーが一度抜かれるとでもいうべき状態に入る事。これは十字架の働きによる。

Thus, says the Lord...

地を造られた主、それを形造って堅く立たせられた主、その名を主と名のっておられる者がこう仰せられる、

わたしに呼び求めよ、そうすれば、わたしはあなたに答える。そしてあなたの知らない大きな隠されている事を、あなたに示す。
・・・
見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。
わたしはユダとイスラエルを再び栄えさせ、彼らを建てて、もとのようにする。
わたしは彼らがわたしに向かって犯した罪のすべてのとがを清め、彼らがわたしに向かって犯した罪と反逆のすべてのとがをゆるす。
この町は地のもろもろの民の前に、わたしのために喜びの名となり、誉となり、栄えとなる。彼らはわたしがわたしの民に施すもろもろの恵みのことを聞く。そして、わたしがこの町に施すもろもろの恵みと、もろもろの繁栄のために恐れて身をふるわす。-Jer 33:2-9

これはユダとイスラエルの回復の預言。しかし、私たちエクレシアに対しても語られている(2Cor 1:20)。私たちが主の喜びの名、誉れ、栄えとされ、健康と癒し、豊かな繁栄と安全を享受し、主の恵みを証しすることは、他の人々にとって恐れとなる。これによって立ち返るべき者は立ち返る。

SO BE IT!

日々キリストにありて

ファイル 4733-2.jpg


ニール・アンダーソンによる黙想


 あなたに代わって、私の心は申します。「わたしの顔を、慕い求めよ。」と。主よ。あなたの御顔を私は慕い求めます(詩篇27:8)。

 「朝、太陽が照っていたら、私はします」。
 「ドアが開かれるならば、それをなすのが私であると分かるのですが」。
 「世界宣教のクラスに合格するならば、私は宣教師になります。そうでなければ、一地域の牧師でいいです」。
 私たちは自分がこのような姿勢よりはましと思っていますが、いざとなると頭に浮かぶことがこれと同じ状況であることに驚くのです。このような前提主義は、主の前に「毛皮を置き、しるしを求める」ことです。
 毛皮はギデオンの物語に由来します。士師期6章において、ギデオンはイスラエルをミデアン人から解放するために神に召されます。ギデオンは神がイスラエルと共にあることを疑い(13節)、自分自身の能力を疑い(15節)ました。そこで彼は神にしるしを求めたのです(17節)。神は彼にひとつのしるしを与え、バアルの祭壇を打ち壊すように語りました。彼は昼間は恐れていたので、夜、出かけました。
 そして、さらに彼は神がイスラエルを解放することに疑問を持ちました。この時は、小羊の毛皮を地面に置きました。もし神がイスラエルを解放するならば、朝、毛皮を湿らせ、地面は乾いたままにすることを求めました。よく朝、そのとおりになりました。これで彼は納得したでしょうか?違いました!さらに確証を求めて、また神が怒らないことを願いつつ、ギデオンは神に再度、逆の結果となることを求めました(すなわち、毛皮を乾かし、地面を湿らせる)。英雄としては相応しくないでしょうが。しかし、神はギデオンの求めに応えられ、ギデオンの軍隊を300人に減少しました!
 ここの物語の要点は、神ご自身が、人ではなく、解放者であることです。神は必死で確証を求める人物を選ばれ、その軍隊を縮小し、勝利はご自分のものであることを示されたのです。毛皮は信仰のデモンストレーションの手段ではありませんでした。それはむしろ逆です。またそれによって神の御心を動かしたのでもありません。神はすでにギデオンになすべきことを告げておられました。ギデオンは神の完全さに疑問を呈しました。ちょうど私たちも神の御旨が明らかなのに、毛皮を求めると同様です。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めています」(マタイ12:39)。神の民として、私たちは神のみ顔を求めしょう。

 主よ、時に私たちはみ顔を求めるのでなく、しるしを求めることを赦してください。私は今日、あなたの御言葉に啓示された信仰の内を歩むことができますように。

魂の救いと健やかさ

イエスは日々十字架を負い、自分を捨て、魂のいのちを否めと言われた(Luke 9:23-24)。何度もここで書いているが、それは魂の機能である、知性・感情・意志の活動を停止し、私の意識が消失することではない*1。それはナンセンス。しかし、こう勝手に解釈して、自分が死なない、死のうとするとますます生きてしまうと葛藤し、自作自演的にクルシチャン化する者がいる。霊から独立して機能する魂を否めと言うことであり、私たちの魂はキリストに依存するとき、ますます栄えるのだ。

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子の信仰によるものです。-Gal 2:20

パウロは明確に、生きているのは私ではないとしつつ、肉において私が生きていると証ししている。キリストの信仰に頼るとき、私は生きるのだ。この二つの「私」の間には十字架の死と復活がある。だからヨハネはこう祈っている:

愛する者よ、あなたの魂が栄えているように、あなたがすべての面で栄え健康であるようにと祈っています。-3John 1:2

邦訳では「恵まれて」となっているが、ヘブル語は"euodoō(栄える)"だ。人類はいのちの木の実を取り損なった。その実体はキリストご自身。その方の信仰によって生きるとき、

待ち続けるだけでは心が病む。かなえられた望みは命の木。・・・願望がかなえられれば魂は快い。愚か者は悪を避けることをいとう。-Prov 13:12;19

かなえられた願いはいのちの木、すなわち信仰の実の一要素である喜びを生む。イエスご自身がこう約束されている:

あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。・・・これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。-John 15:7-11

ハレルヤ!キリスト信仰によって生きる魂はますます栄え、神の国を表現するのだ。その霊に満たされた魂が語り出す言葉は、霊であり、いのちである(John 6:63)。ゆえにパウロはこう勧めている:

そして思いの霊において新しくされなさい-Eph 4:23*2

はっ?思い(mind)は魂の機能では?確かにそうだが、ここの思いには霊が浸透しているのだ。これがトランスフォームされた思い(Rom 12:2)。私たちの魂、特に思いはもはや霊から独立して勝手に彷徨うことはない*3。それは霊と御言葉にしっかりと根付いている:

だから、あらゆる汚れやすべての悪から離れ去り、移植された御言葉(logos)を素直に受け入れなさい。それは、あなたがたの魂を救うことができます。-James 1:21

魂が栄え、すべてにおいて健全であること。これはまず思いのトランスフォーメーションから始まる。思いが霊と真理に基づいているならば、感情は安定し、健やかかつ豊かであり*4、意志もそれによって言動を決める。こうして私たちは神の国のポータル(門)として、地上に神の国を現出させるのだ。ゆえにハデスの門もエクレシアに打ち勝つことはできない(Matt 16:18)。ますます大胆にイエスの名によって求め、願いをかなえていただこうではないか

*1:こういった状態を「悟り」とか勘違いする向きがあるようだが、それは宗教。
*2:邦訳では「心の底から」とか意味不明の訳になっているので注意。
*3:思い煩い、後悔、自責感、抑うつ、焦りなどは彷徨う思いの兆候だ。もちろん敵の放つ火矢もある。
*4:イエスが笑ったかとか議論する人々がいる。イエスは実に感情豊かだった。人前でもよく泣いた。しかめっ面と信仰は反比例するのだ。あと、目が笑っていない牧師の笑顔とも・・・

神の国のポータル(門)

ファイル 4732-1.jpg

ヤコブはベテルで天からかけられた梯子を天使が上り下りするのを見た*1。ゆえにその地は天の門であり、ベテル、すなわち神の家と名付けた(Gen 28:1-19)。天の門、天使が上り下りするポータル。イエスご自身も自分の上に天使が上り下りすると言っている(John 1:51)。そして実は私たちも同じだ。天使は私たちに仕える霊(Heb 1:14)。私たちは神の家(Eph 2:22)。ゆえに神の国の門、ポータルなのだ。

昨今、女子高生が同級生や老女をを猟奇的に殺したり、若い男が突如男児を刺し殺す事件が多発している。ISILはヨルダン兵士を生きたまま焼き殺す映像を公開するなど、地獄の様が展開している。これらについてしたり顔で精神あるいは社会病理が云々とできるだろうが、霊的には彼らは地獄の門として用いられているのだ。彼らをとおして悪霊が出入りしている。

私たちクリスチャンは為す術もなく闇の勢力の台頭を許している状況だが、私たちが自分のアイデンティティと居場所を真に知るならば、彼らにとっては脅威となる。だから敵はクリスチャンをして、自分の葛藤や悩みの解決や、自分の"聖化"、あるいはいわゆる伝道や奉仕、さらに幸福の追及や自己目的の達成に閉じ込めている。しかし神のみ旨は、神の国を私たちをとおして、今、ここに現出させること。神の国は手で触れることができるのだ!DO YOU BELIEVE?

*1:ふつう、梯子は下から上にかけるが、ここでは逆。天がかけて下さる梯子だ。が、天使は上り下りする。地の必要を天にもたらし、その満たしを下してくれるのだ。アセンディングとディセンディング。これは私たちの経験でもある。

パウロの経験

彼は14年前に第三の天に上げられ、人が聴くことのできない言葉を聞いたと証ししている(2Cor 12:2-4)。そこで何を見たか、何を聞いたかは一切語っていない。彼は何を見て、何を聞いたのか。彼の経験したことは彼にのみユニークなものだったのか、それとも誰にでも起き得ることなのか。私は前者の立場であった。が、今、パウロがその見聞きした内容自体を語らないことが理解できる。それは決してオープンにすべきことではないからだ。地上のことでコンフォームされたマインドにとってはやばい。やばすぎる。それは神の領域に入り込む経験。ミステリーを垣間見ることだから。神が秘していることを人間が暴くことは許されない。神が開かれる時、開かれることだけを分として受け取るべきなのだ。クリスチャンと言う存在の本質もそこに隠されている(Col 3:3)。

天のことVS.地のこと

ここでも過去に何度かつぶやいていたが、極私的に告白すると、地上のことにはもう飽きてしまったのが本音かもしれない。ひととおり人として経験すべきことは味わった。仕事も、遊びも・・・。地的な義務と責任はすべて果たした・・・。

そんな気持ちが漂っていたとき、昨年12月、予期せずしてアレが起きた。御言葉を経ずに直に見せられ、語られた。今でも妄想か幻覚か、結論を保留している部分がある。が、それから聖書が立体化した。御言葉が浮き上がり、イエスの言動が3D映画を観ているかのようにリアルに迫る。神が直に語りかけて下さる。御言葉を解き明かすとか、その霊的意味を探るとかではなく、語りかけ自体を味わっている。

まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。
あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。-John 3:11-12

天上のこと-そう、これを追求する意欲が抑えられず、湧き上がる。なんなんだ、これって?

私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。
・・・
まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。-1Cor 2:7-10

奥義、すなわちミステリー。神の秘された事柄

事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王の誉れ。-Prov 25:2

イエスと私たちの居場所とアイデンティティー

And no man hath ascended up to heaven, but he that came down from heaven, even the Son of man which is in heaven. -John 3:13

これを訳すると*1

誰も天に昇った者はいない。天から下ってきた者、天にいる人の子以外には。

はあ?天から下ってきて、しかも天にいる、しかも人の子?一方でエペソにはこうある:

罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、―あなたがたの救われたのは恵みによるのです―キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。-Eph 2:5-6

はあ?私たちは地上にいるが、天の王座にキリストと共に座している?しかもパウロはこう言っている:

相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、人として歩んでいる、ということになりはしませんか。-1Cor 3:3

はあ?「人として歩んでいるということになる」とは、私たちの本来のアイデンティティーは人ではないということ?そう、私たちは単なる人ではなく、キリストにある新創造、すなわち新人類なのだ。

だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新創造(KJV:a new creature)なのです。-2Cor 5:17

これらはたとえ話ではない。そのとおりに受け止めるのだ。われわれは天に座し、しかも地にもいる。つまり天と地をつなぐ新しい創造物なのだ。人の子であるイエスがそうであったように(John 1:58)。神の国(ザ・キングダム)は、今、ここに現存する!繰り返すが聖書はマジでとらえるとやばいのだ。

*1:邦語訳では「天にいる」がカットされている。

私のかつての父なる神観-パン種に注意

イエスは聖霊が来られるとき

イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。・・・」-John 14:23

と約束された。聖霊が内住されることは、父とキリストが内住されること。つまり三位一体の神が私たちを宮とされるのだ。そして内なるキリストとの交わりを味わうことも経験していた。その甘い愛、平安、喜びなど・・・。しかし、目の前に末期がんの兄弟姉妹が出現するとき、私はある意味絶望した。なぜか。

神は世界を創造した後、その運行を法則に委ねられた。自然科学の法則、人文科学の法則、社会科学の法則に。ゆえに例えば、たばこを吸えば癌の罹患率は上がる。高齢出産ではダウン症のリスクが上がる。だから、たばこは控え、若いうちに出産するように対応してきた。カネを稼ぐには世の法則をつかんで、それに乗ること。できる限り楽をして人生を楽しんできた。そして神は時に、摂理により私たちを導いて下さる・・・と。このような世界観(モデル・パラダイム)に従って生きてきたのだ。

すると、自分で制御できる領域と制御できない領域の仕分けが必要になる。以前から言ってきたが、髪の毛を引っ張って空を飛ぶことはできないし、そんな無意味な努力はやめよと。マインドがこのようにコンフォームされていると、ステージ4のがん患者にはもはや希望が失せるのだ。あるいは乳房を切除された女性が再生を祈ってほしいと来るときも。それは自分で制御できない領域の事象であるゆえに。あるいは摂理による導きでは手遅れであるゆえに。しかも父なる神は世界を法則に委ねられている以上、この状態に直接介入されることはない、と私のマインドはコンフォームされていた。だから祈りも無意味・無力となるのだ。

今回、これが根底からひっくり返された。自分の体で直接的癒しを経験し、神の臨在が手で感じられるようになり、その栄光を重さとして味わった。父なる神がすぐ目の前におられる感覚。私たちの地上の生活に直接に介入して下さる神なのだ。この経験をして、天で御心がなるとおり、地にもなるようにとの祈りが現実感を伴って、生きるものとされた。かつては何がなるのかも不明、きわめて曖昧なキリスト教の礼拝の式文としか感じられなかったのだ。いわゆる神の癒しとか、しるし・不思議についてはほとんどスルーのスタンスだったし、もっと言えばいかがわしいと思ってきた。

今回、この正体が明らかにされた。マルコに、船で向こう岸に渡ろうとしたイエス一行は、弟子たちがパンを忘れてきて、ひとつだけだった。

そのとき、イエスは、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」と戒められた。-Mark 8:15

弟子たちはそれまでに二回もパンと魚が増える奇跡を見ていたが、それを忘れ、自分たちがパンを忘れたことを責めているのかと思ったのだ。この期に及んでも彼らの目は開かれていなかった。パリサイ派のパン種とヘロデのパン種?実はこの二つが奇跡としての(=自然法則を超える)主の御手の介入の信仰を阻害するのだ。私は意識的にパリサイ派のパン種を拒絶していたが、見事にヘロデのパン種に侵されていた・・・。これらの正体がいったい何であるのか。What do you think about?

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