究極のリアリティーとは?-ブレインが構築するクオリアからの解放

この写真、どう見えるだろうか?生足がオイルで光っている。・・・ノー。これはトリック。単に白い絵の具を塗っただけ。「オイルで光る」のはブレインが作り出した幻想なのだ。このようにブレインが構成し、知覚するモノをクオリアというが、現実とはしばしば異なる。そもそも「色」自体がないのだ!存在するのは波長の異なる電磁波だけ。そのある領域が「色」として知覚される。まさに色即是空。

ジュリアン・ムーアの『アリスのままで』。言語学が専門の大学教師がADによって壊れていく過程の恐怖と家族の苦悩を描いた作品。最初は単語が思い出せない。次に自分がいる場所が分からない。家族のメンバーも間違える・・・・。渡辺謙の『明日の記憶』とモチーフは同じ。

魂(soul)は大脳と同期している。大脳が壊れると魂は機能できない。極私的に養老孟司氏の『唯脳論』のような一元論は採らない。魂と大脳は別の存在であり、魂がこの物理的時空間に関わる媒体として大脳を用いているのだ。ゆえにADの場合も、自分が壊れていくことが分かる。それは魂が大脳の状態を把握しているからだ。中でもマインドは霊と魂の接点。不思議なのは、たとえば数学的真理のひとつ

などは大脳のどこにどのような形で存在するのだろうか。プラトン的にはイデアとなるのだが・・・・。これなどは自然界の普遍定数が見事に一体となっていることを示しているわけで、ある種の三位一体の表現とも思えるのだ。ともあれ、マインドはこのように霊的真理、数学的真理、あるいは物理的法則や社会的道理を理解し、それに従って私たちはこの世界と関わっている。これが内的な世界モデルで、人々の最大公約数的な部分が世の中の常識と呼ばれるものであり、これから外れたり、歪んだりするといわゆる人格障害を生じる。

この内的な世界モデルが崩壊するのがいわゆる認知症だ。彼らの周囲の人も事物も物理的実在としては何も変わらない。が、彼らの内的世界モデルが崩壊していく。過去の記憶も含めて。通常は記憶の連続性を自分のアイデンティティーの縁としているため、記憶体系の崩壊はすなわち自分の崩壊を意味する。これは自分が消え去ることとも言え、患者本人にとっては恐怖であろう。

対して、クリスチャンの場合、その本質は霊でありキリスト系の新創造(ニュー・クリーチャー)であり、そのアイデンティティーはアダム系の記憶の連続性によらない。またこれまで五感の経験により構築してきた内的な世界モデルにもよらない。私たちの真のアイデンティティーは聖書に書いてあるものである。

私たちの記憶も物理的時空間における時系列としてのものではなく、物理的時空間を超えた永遠の現在における”それ”である。それは神の目から見た新しい私と新しい私の記憶の体系だ。私たちのサブスタンスは世の始まる前から神の書に書かれている(Ps 139:17)。それがこの物理的時空間において時系列的に成就する過程が新生命体としての私たちの人生なのだ。そのデモンストレーションをイエスがすでになしてくださっている。ある意味でイエスの人生の追体験と言ってもよいだろう。聖霊のメモリーはジーザスの言葉とわざを証しされる。つまりキリストの記憶を私たちのうちに実体化して下さるのだ。

そのイエスの内的世界モデルはわれわれのものとは相当に異なっている。彼は永遠の現在にある神のサブスタンスがこの物理的時空間に現出された存在だ(Heb 1:3)。ゆえに宇宙人が地球に介入したのと同じ。価値観もパラダイムも内的世界モデルもまったく異なっている。彼の言動を人間的視点から評価したり、解釈してはならない。むしろわれわれのマインドが再構成される必要があることは何度も指摘している(Rom 12:2;Eph 4:23 エペソ書の原語は「思いの霊において新たにされ」)。

私たちは、その意味で、この日本においては人格障害と言われても宜なるかなである。否、むしろそれが本当のクリスチャンのあり方なのだ。いわゆる常識などはわれわれにとっては障害となる。アーサー・ホーランドのようにあえて偽悪を演じるまでもなく、私たちのマインドがトランスフォーメーションされているならば、自然と日本社会からは浮くのだ!

私たちは通常、ガンに罹ることや、失業、離婚、近親者の死、事故や事件などを恐れている。そのために保険をかけ、いざという場合に備える。これが私たちの人生のパラダイムだ。が、イエスにとっては違う。新約聖書でイエスがもっとも頻繁に語った言葉は何か?それは「恐るな!」だった。同時に「信じよ」と。

実際、イエスにとっては病気などはまったく障害にならなかった。欠乏もなかった。彼は魚の口から銀を得ることもできたし、パンを増やすことも自在だった。水をワインに変えたり、死者をすら生かした。彼はまさに最初のアダムに命じられた「地を支配せよ」をそのとおりに実行されたのだ。そして私たちも信じるならば同じことができると言われた(John 14:12)。私たちにとっても地を支配すること、これはマストである。

しかしイエスが恐れたことがひとつだけあった。ゲッセマネの葛藤だ。彼は何を恐れ、何ゆえにあれほどに葛藤されたのか。十字架の酷い刑の苦痛?アブソリュートリー・ノー。彼はわれわれのために罪とされ、御父から切り離されることを恐れたのだ。あらゆることを父の語るとおり、またなさるとおりにしてきた彼にとって、父との交わりを絶たれることは致命的だったのだ。これが彼の内的世界モデルによる反応だった。

イエスを私たちの物差しで計ってはならない。あるいは私たちの世界モデルを投影してもならない。逆だ。彼の物差しと世界モデルを採用すべきなのだ。これがマインドのトランスフォーメーション。この時、私たちはキリストの感受性に従って、彼と同じわざをなす。奇跡や癒やしをなす鍵は何か。それはいわゆる聖霊派の求めるパワーではなく、イエスの感受性である。2014年にDr.Kさんのホスト役で温泉オフ会をした祭、対談で私はそう語った天の感受性が私たちのうちに再現されるならば、まさにイエスのしたこと、天の御旨を地に表すことができるようになるだろう、と。

私たちが真に人の目やガンや欠乏を恐れなくなり、むしろ父との関係を損なうことを恐れるようになるならば、すでに得ているキリストのマインドが私たちの魂のうちに展開する。キリストの感受性によってすべての事象に対応するようになる。この時こそ、イエスと同じわざ、否、それ以上のわざをなすであろう。神の国がタンジブルに地上にもたらされるのだ!

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