物は壮(さかん)なればすなわち老ゆ-老子第三十章

物は壮(さかん)なればすなわち老ゆ。これを不道と謂う。不道は早く已(や)む-老子第三十章

わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。-マタイ7:21-23

いわゆるリバイバルを求め、自分たちの教勢(この用語もニッポンキ業界特有だ)が拡大し、キリスト教が盛んになることをニッポンキ業界は求めているだろう。が、それは幻想だ。神の道はイベントや催しモノが栄えることではないし、いわゆる礼拝出席者数が増加することでもない。一時のリバイバル音頭の熱狂などはたちまち冷めるものだ。

主ご自身が言われている:わたしが地上に戻る時、果たして信仰が見られるであろうか、と。主が求められるのは純度だ。道に則ること。道とは主ご自身であり、霊の法である。法に従わない者は、種々のわざをしようとも、主からあなたをまったく知らないと宣告されるのだ。このマタイ7章の「不法」とは「悪いこと」ではない。法に従わないことだ。静かに、人々の耳目を集めず、淡々とした歩みに留まりたいものだ。

全文:道を以って人主(じんしゅ)を佐(たす)くる者は、兵を以って天下に強いず。その事は還るを好む。師の処(お)る所は、荊棘(けいきょく)焉(ここ)に生じ、大軍の後は、必ず凶年あり。善くする者は果たして已(や)む。以って強いるを取らず。果たして矜(ほこ)ることなく、果たして伐ることなく、果たして驕(おご)ることなく、果たして已むを得ずとす。これを果たして強いるなしと謂(い)う。物は壮(さかん)なればすなわち老ゆ。これを不道と謂う。不道は早く已む。

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